おほもと Oomoto

大本の教えにみる現代社会

安楽死と尊厳死 

人に「死を選ぶ権利」があるだろうか

出口齋 教学研鑽所長(当時)

月刊誌「おほもと」平成5年4月号から転載

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きれいで楽な死

このところ“安楽死”や“尊厳死”に関する議論が盛んである。

この議論は古くからあるが、とくに近年にいたって末期医療が急速に進歩し果てしなく延命がはかられる結果、死にたいする概念があいまいになって、“植物人間”、重度の恍惚老人あるいは脳死・臓器移植などの問題とともに、死に関する論議が活発になり、マスコミでも大きく取り上げられるようになった。

なかでも「安楽死」問題が一般の注目をあつめるようになったのは、平成三年四月十三日に、神奈川県伊勢原市の東海大医学部付属病院で、徳永雅仁医師(当時三十四歳)が激痛に苦しむ末期ガン患者(当時五十八歳・男性)に塩化カリウムの原液二十ccを一気に静脈注射して死にいたらしめ、殺人罪として起訴された事件によるといえよう。

この事件は、患者の家族の度重なる執拗な懇請によって、徳永医師が看護婦の制止をふりきり、「積極的安楽死」をさせたというのである。起訴されたのは徳永医師一人であるが、事件経過のレポートをみるかぎりでは、病院側や患者の家族が問われていないことに疑念をいだく。

ついで平成四年三月十八日に、日本医師会は同会の生命倫理懇談会がまとめた「末期医療に臨む医師の在り方」についての報告書を理事会で承認し、同会の見解として公表した。その報告書によると、回復の見込みがない患者の延命治療を本人の希望によって打ち切る「尊厳死」は認めるが、薬物などで積極的に死をもたらす「安楽死」は原則的に認めないとしており、これを契機に安楽死と尊厳死の問題はさらにクローズアップされてきた。

ところで安楽死とは、語源はギリシャ語で「良き死」「きれいで楽な死」といった言葉の訳語で、かならず死を迎えねばならない人間にとって安楽な死への望みは、洋の東西を問わず太古から今日にいたるまで人類共通の願いといえる。

事実、今日まで世界各地で、さまざまな形態の安楽死が実施されてきた歴史がある。なかでも十九世紀末からは、近代合理主義に支えられた安楽死論、つまり“不治の耐えがたい苦痛にあえいでいる末期の患者を早く楽にしてやる行為”としての是非が、宗教、倫理、法律、医学、社会、経済など各領域で盛んに論議されるようになり、今日におよんでいる。

二つの安楽死

この安楽死は、今日ではさまざな形態に分類され一言に論ずることはきわめて難しい。

そのため、その定義は多種多様にあるが、総括していえば「安楽死とは、苦痛を訴えあるいは人間の尊厳性を求める不治の末期患者の要請に応じ、医師その他の他人が、積極的あるいは消極的手段で患者を死に至らしめること」といえるであろう。

いま、安楽死にさまざまな形態があるといったが、それは安楽死を求める側にさまざまな要因があるからである。人間の尊厳性を失いたくないという人、生きた屍[しかばね]として意味のない生存を続けるだけの人、耐えがたい身体的苦痛にある人、連帯者や共同体に過度の負担をかけるだけの生存となっている人などが、そこからの解放を求めているからである。

この安楽死の実施手段にもさまざまあるが、一般には大別して「積極的安楽死」と「消極的安楽死」の二つに分けられている。

積極的安楽死とは、他者の生命の消去を意図して、積極的な行為で働きかけることをいい、たとえば射殺、絞殺、刺殺、薬殺、さらには血管に空気を注入して死にいたらしめることなどがある。

消極的な安楽死とは、直接に他者の死を意図した行為ではないが、結果的に死を前句と行った場合をいい、たとえば、死を早めると知りながら激痛をとめるためモルヒネをうちつづける場合などがあげられる。

わたしたちは、これらの内容を詳細に検討し、安楽死(積極的・消極的)と尊厳死のすべてが否定されねばならないのか、あるいは何が容認されて何が否定されねばならないかを、よく見極めねばならない。

積極的安楽死

まず、積極的安楽死からとりあげてみよう。一般に積極的安楽死を「安楽死」といい、消極的安楽死を「尊厳死」と呼ぶ傾向にあるが、消極的安楽死と尊厳死は共通する要素を多くもっているが、かならずしもイコールとはいい難いと思う。尊厳死については後で触れる。

さて、この積極的安楽死は、不治の病で、しかも軽減させることのできない過度の身体的苦痛、つまり耐えがたい苦痛から逃れる手段として、薬物を投与するなどの積極的方法で生命の短縮をはかろうとするものである。

昔からこのような安楽死は、人々の同情に支えられさまざまな方法で実施されてきたが、今日においても果たしてこのような人為的に生命を奪う行為が、倫理的に宗教的にゆるされるのかどうかが問われている。

昭和三十六年八月に、苦痛にあえぐ父親の願いによって、長男が最後の孝養として父親を薬殺した事件があり、名古屋高等裁判所ではこれを有罪とした。その判決のなかで安楽死であるためには、次の六条件(要旨)がみたされねばならないとした。

(1)不治の病で死が目前にあること。

(2)苦痛が耐えがたいものであること。

(3)苦痛緩和の目的でなされること。

(4)本人の明確な意思であること。

(5)医師の手によること。

(6)手段が倫理的に容認されるものであること。

つまり、この六条件がみたされたならば安楽死は容認できると判定したのである。果たして今日論じられる積極的安楽死が、この条件をみたせば認められるのであろうか。以下にこの問題を考えてみたい。

あいまいな条件

(1)では「不治の病で死が目前にあること」とあるが、現代医学から見離された患者でも奇跡的に回復した例は数多い。末期ガンからの全快例も少なくない。厳密な意味で真に不治であるかどうかその断定はきわめて難しい。多くの臨床例から結果的にそういうにすぎないのであって、治癒例が一つでもあれば不治の病と断定しにくくなる。

(2)の「苦痛が耐えがたい」については、もともと安楽死は苦痛や死の恐怖からの回避を目的とし実施されてきた経緯からみて、この条件は安楽死の基本的な要因にあげられよう。

この苦痛も病が回復する可能性があれば、それに耐える力も出るであろうが、苦痛の除去には死しかない場合もあるといわれ、そのような場合は、たんなる苦しみに終わるだけで、それに耐えさせることに意味がなく、非人道的だというのである。

しかし、耐えがたい苦痛とは主観的なもので、さまざまな度合いがあり、実際にどの程度であるかは人によって差異がある。病人が「苦しい、死なせてくれ」と再三懇願する場合でも、真に死にたいと思っているのか、死にたいほど苦しい自分を理解してくれと訴えているのか、あるいは死にたいする恐怖心から早く楽にさせてほしいといっているのか分からない場合もあるとされ、この基準も漠然としている。

幸いなことに、近年の鎮痛剤の進歩には著しいものがあり、ガンの場合は九七〜九九%までは激痛を止めることができ、将来、積極的安楽死の必要はなくなるのではないかとさえいわれている。

(3)に安楽死は患者の「苦痛緩和の目的」で実施されるべきだといわれているが、苦痛の緩和が“生命”の消去という大事と置き換えられるほどの価値があるかどうかは問題である。これは大きな問題なので、後でのべることにする。

(4)に「本人の明確な意思であること」とある。これは患者を死にいたらしめる場合、本人の意思でなく家族などの意思で実施され、結果的に、“強制安楽死”になってはならないからであろう。かりに本人の意思でも、それが何時の発意によるものかが問われねばならないといわれる。それは人間である以上、その後に翻意する場合もあるからである。もっとも望ましい時期は実施の直前であろうが、その時はすでに正常な判断力を失っている場合がおおく、この「本人の明確な意思」の確認には難しいものがあるといわれる。

またこのことは、本人に「死を選ぶ自由」「死ぬ権利」があることを意味している。つまり、積極的安楽死が自殺と異なるところは他人に死を嘱託するだけで、本質的に自殺と変わるところはない。果たして人間には、自分の意思で己の生命を絶つことが基本的に許されているのだろうか。これまた大きな問題である。

(5)に「医師の手によること」とある。楽に死なせるのも医療だとの主張もあるが、医師は人命救助を使命とするもので、医師が自らの手で人命を断つことは、医のモラルに反する自殺幇助[ほうじょ]であり、医学の完敗につながるともいわれ、議論は続いている。

(6)に「手段が倫理的」とあるが、たとえば過去に有罪になった絞殺、刺殺、血管への空気の注入などがいけないとするならば、では劇薬の注射なら許されるのだろうか。注射が人道的であり倫理的であるという根拠はどこにあるのだろう。理解しがたいところである。

このように積極的安楽死には、多くの問題がある。

価値なき生命だろうか

以上の中でも、とくに問題にしたいのは、この積極的安楽死思想の根底にこうした「価値なき生命」を「自己の意志」で消去してもよいとする考えがあることでる。この人間の死に、“自己決定権”があるとする考えは、安楽死、尊厳死の全般に共通している。

つまり人間には、人の生命を価値、無価値と選別する価値観と自己の生と死を選択する権利があるとみるわけで、当然のことながらこれらをめぐる論議は、多くの人々によって徹底的に行われねばならない。

わたしたちは宗教的立場から、大本の教えから、自分の意志で己の生命を他者を通じて人為的に抹殺し、消去しようとする思想の是非を考えねばならない。

まず「価値なき生命」とする問題からみてみよう。

積極的安楽死においては、不治の病で耐えられない激痛にある生命を、生きるに(耐えるに)価値なき生命として消去しようとする。しかしそこには、先にのべたように人間の生命は激痛と交換できるほどの価値でしかないのか、という問いが生まれる。耐えがたい苦痛には、末期ガンばかりでなく“多発性神経硬化症”“顔面あるいは三叉[さんさ]神経痛”などがあり、それはガンにまさるとも劣らないといわれ、鎮痛薬の効き目のないものもあるという。加えて窒息、息切れ、吐き気、不眠、床ずれなどがかさなる場合もある。

最近オランダでは、この積極的安楽死も手続きが公正ならばよいとして、世界で初めて「安楽死」を法的に認めた。その条件として「不治の病である」「耐えがたく、かつ治療でやわらげられない苦痛がある」「死期が近い」「別の医師の意見も求める」など二十八項目をあげ、なお医師は安楽死の方法や経過などをくわしく記録し、死後は検視官に報告するなどの義務づけがある。

こうした動きにもかかわらず、なお疑問として残るのは、生命のもつ本質的な“価値”についてである。こうした軽減できない激痛があることを承知のうえで、あえていうのは、患者や医師などの心の底に「どうせ治らない病気だから」「役に立たない生命だから」という投げやりな心理が働いていはしないかという懸念があるからである。安楽死問題では一般に、「価値なき生命」という言葉が頻繁に使われるが、このような状態におかれた生命がほんとうに価値なきものといえるのだろうか。

与えられた生命を尊び、あらゆる苦を忍び最後の瞬間まで病と闘い、可能な限りの最善をつくして生きることこそ、“生”にたいする忠実な生き方ではないだろうか。これは鎮痛剤が無用という意味ではない。この問題は、尊厳死のところでもう一度考えてみたい。

第二に、「自己の意志」による生命抹殺の問題である。

これは先にのべた人間の死にたいする自己決定権の問題で、これを肯定すれば「死ぬ自由」「死を選ぶ権利」が人間にあることになり、本質的には自殺を認めることと何ら変わりがない。

もともと生命は天与のもの、神から与えられたものである。したがって、人間の生も死も神の手にあるもので、この厳かな神の摂理を人間が勝手に左右することが本来できるのだろうか。たとえ、どのような状態におかれた生命でも「自己の意志」で絶つことは、神にたいする冒涜[ぼうとく]ではないだろうか。

大本の教えからは、人間の霊魂も肉体も神から分与されたものであり、自殺は罪悪中の罪悪とされている。この点からみても、わたしたちは積極的安楽死を容認することはできないと思う。

結果として死を招く

次に、消極的安楽死をみてみよう。この消極的安楽死には、二種類があると思われる。間接安楽死と直接安楽死とである(一般には、このような分けかたはしていない)。

消極的「間接」安楽死とは、先の例のように、モルヒネなど鎮痛薬投与の増量が結果的に生命を縮めると知りながらこれを行う場合などがそれである。

また、だれの目にも確実に死期の切迫が認められる患者に、それ以上の過剰な延命努力はしないといったケースもこれにあたる。たとえば末期のガン患者が感染病を併発したとき、従来の治療はつづけるが、感染病の治療は積極的にしないといった場合や、激痛に苦しむ不治の患者の臨終にカンフル注射をすれば、わずかな時間ではあるが生命の持続がはかられると知りながら注射をうたない場合などがそれである。

これは直接に死を意図した行為ではないが、結果として死を招く行為である。しかし、こうした消極的な「間接」安楽死のケースは、今日の医療現場では日常的に行われているといえよう。

このように、現実の場における延命努力には、どこかに限界があるもので、いかなる場合にも無制限に延命をはかる“延命絶対主義”をよしとするわけにはゆかないようである。たとえば、完全な脳死者(完全な全脳死)、超重度奇形新生児などの場合はどうであろう。こうした場合は、ゆるやかに生を引き取らせる消極的「間接」安楽死は認められてよいのではないだろうか(もちろん、こうした人たちからの臓器移植は不可である)。

ただ、このような場合に、何を基準に限度をどこにおくのかの判断は難しいものがあろう。先の例のように、やむを得ず結果的にそうなった、あるいは死が絶対不可避で他者(医師たち)の正当な判断で、やむを得ず消極的な間接的な処置がとられた場合などにかぎって、消極的「間接」安楽死は容認できるのではないかと思う。

それは、生命の消去にたいする「自己の意志」が、“結果的”で、しかも間接的なものであった場合は、本人の「死を選ぶ権利」もまた小さく、これを“自殺”と同様に考えるわけにゆかないからである。したがって、この場合には、倫理的にも宗教的にも、あまり責を問うことはできえないのではなかろうか。

一方、消極的「直接」安楽死は、これより積極的であり直接的である。日本医師会では、末期医療を「近いうちに死ぬことが避けられない病気や外傷で、約六カ月以内の期間」と定義しているが、このもっとも早い時期から、自らの意志で一切の延命治療を拒否する場合などがこれにあたる。現代は末期医療が発達したとはいえ、まだ十分とはいえない。今後ますます発達し、今日の不可能を可能にしてくれるかもしれない。このような早い時期からの生の放棄はいかがなものであろうか。

このほかに患者が独断で不治の病と判断し、治る可能性を放棄し、自ら生を拒否する場合もあるであろう。また“植物人間”になったときには生命維持装置を取り外すことを事前に自ら宣言したりする行為なども生の放棄にあたるだろう。

こうした場合は、明らかに死にたいする「自己の意志」が強く働き“自殺”に近くなると思われるので、わたしたちはこうした消極的「直接」安楽死は認めることができない。

無理に生かし続けられる

次に、尊厳死をみてみよう。

尊厳死とは、「回復の見込みのない病気で死期が迫ったとき、患者が延命目的の医療を断り、人間的な尊厳を保つため自発的に選ぶ死」といわれる。つまり、尊厳死を望む人は無理な延命治療をやめて、安らかに自然な形で死を迎えたいというのである。

尊厳死は、現在世界の四カ国で法制化され、アメリカでは四十七州で認められている。

この尊厳死の考え方は、人間とは精神活動をし自我意識を持つ人格のことで、その人格機能がまったく消失し、医学的にも意識回復の見込みのない生ける屍同様となった身体的生命を、医学の力で無理にひきのばし生存を強いるのは、人間の尊厳を損ない冒涜するものというのである。

つまり、人間は生物学的生命に価値があるのでなく、精神的、人格的生命にこそ意味があるとの観点から、人間らしい品位ある死を静かに迎えたいにもかかわらず、無理に生かしつづけられることに疑問をもち、“植物人間”、重度の恍惚老人、重症の精神病者、異常新生児などを非人格的な価値なきものとして、その存続を拒絶しようとする考え方である。

現代の延命至上主義の医療によって、このような非人格的、身体的生命のみで存続させられる状態の人々が増え、社会的に深刻な問題を与えている。尊厳死を肯定する人々は、自分がそのような状態におちいったときは、無意味な延命努力をやめて死にたいという。つまり、ここでも死にたいする自己決定権は強く主張されている。

その意思表示の方法として、尊厳死の宣言書「リビングウィル」(生前発効遺書)がある。近年では尊厳死協会にこれを登録する人が増え、現在では三万余の会員がいる。

合理的な考え方にたつと、こうした死の要求も理解できる一面がある。しかし、宗教的な立場から考えると、“人格的表現”を失った生命の存続を無意味で無価値な“生”と割り切り、自己の意志で死を選んでよいといえるであろうか。

わたしは、この尊厳死の考え方には、大きな問題があるように思う。

“死”を宣言する

問題を分かりやすくするために、尊厳死を二種類にわけてみよう。消極的尊厳死と積極的尊厳死とである(この分け方も一般にはされていない)。

わたしのいう消極的尊厳死とは、延命治療の拒否というよりも過剰治療の拒否というべきあり方をさしていう。すなわち、通常的な末期治療は受けるが、死の直前において、わずかな時間の延命のために過剰な治療がほどこされるのをやめることをいう。とくに、死が“絶対”不可避とみられる場合は人工呼吸器などの装着を拒否する。

これは、自己の生命を「価値なき生命」とみているのでも、また「自己の意志」による生命の消去でもない。ただ、不自然な過剰治療を排しているだけなので、わたしたちは、こうした消極的尊厳死は容認することができるように思う。

これにたいして積極的尊厳死は、先の消極的「直接」安楽死の場合とほとんど同じといえる。つまり、早い時期から鎮痛薬以外の一切の延命治療を排除するとか、また万一、生命維持装置をつける“植物人間”になった場合は、これを取り外すことをリビングウィルに宣言しておくとかの場合がそれである。この積極的尊厳死を一般に「尊厳死」といっているようである。

このリビングウィルが、延命至上主義にはしる現代の過剰医療を拒否する宣言であれば納得できるが、それだけではないように思われる。現行のリビングウィルには「私が数カ月以上にわたって、いわゆる植物状態に陥ったときは、一切の生命維持装置をとりやめてください」とある。これは、自分の意志で“死”を医師に依託した宣言書と受け取れる。

しかも、これが「精神の健全な状態にあるときに書いたもの」として明確な自己の意思表明の書であり、死後発効の“遺書”でなく“生前に発効する遺書”であってみれば、なおさら「自己の意志による生命の抹殺」を決意した書といえるであろう。

ことに“植物人間”には、人格を発揮する機能(大脳の働き)を表面的に喪失しているだけの場合がかなりあるといわれる。したがって何年も経過した患者が献身的な介護によって意識を回復した例もけっして少なくない。先年、NHKテレビでこの感動的な状況が紹介され、大きな反響を呼んだ。意識の表面的消失は“死”ではない。もちろん、過剰医療によって“植物人間”が造り出される弊害は是正されねばならないが、意識回復の可能性が少しでもある以上は、たとえそれが本人の意思であっても植物や無生物と同じようにな処理 - 生命維持装置の取り外し - が許されてよいものではない。

もし、こうしたリビングウィルが法的にもみとめられるようなことになれば、やがて一般の植物状態の人々にも波及し、安楽死の対象とされてゆくであろうし、老人たちは厄介者になる周囲への気兼ねから、心ならずも安楽死や尊厳死を希望するようになり、現代の『楢山節考』(姥[うば]捨て伝説を素材とした小説)が再現されるおそれもある。事実、現在でも安楽死、尊厳死にたいして身体障害者団体などから反対の声が強くあるがっている。わたしたちは、こうした積極的尊厳死は、容認することができない。

表面的機能の奧にあるもの

ここで、とくに留意されねばならないことは、現代科学では、まだ人間がどういう存在であるのか、その“全存在”が究明されていないことである。肉体や精神についても、まだこの両者を統合し活動させている根源的な力についても、解明されていない未知の領域があまりにも多すぎる。科学者はこの事実を謙虚に受けとめてほしいと思う。人間の表面的な人格機能が消失したからといって、果たして生命本体を消去してよい根拠となるであろうか。

表面的機能は、それ自体で存在しているのでなく、その奧にあるものを母体として機能しているのである。その奧にあるもの(生命本体)が、“何もの”であるかを考えようともしない科学万能の合理主義的思考で、人間の生死がはかられてよいものだろうか。身体的生命は、人格の基盤になる価値をもつもので、無価値ではないのである。

大本の教えでは、人間は肉体と霊魂とからできており、その霊魂は心臓の鼓動が完全に止まるときを待って、すべてが離脱するとされている。安楽死、尊厳死の場合は、心臓は動いている状態なので、霊魂はまだ離脱していない。したがって、これらは“人為的な死”であり、はっきりいえば自殺行為である。ただ、わたしたちは現実を考慮し、自殺の「意思」の小さいもの(本論では消極的「間接」安楽死と消極的尊厳死をいう)は、容認せざるをえないというに過ぎない。

社会全般におけるこうした安楽死や尊厳死を認めようとする合理的思考は、今日では科学万能主義の跋扈[ばっこ]、地球環境の破壊、文化の衰退、利己的思考の増幅、激烈な生存競争、資源の枯渇など、人類の存続にかかわるさまざまな重大問題を生み出し、この思考への懐疑を人々に深めさせている。

にもかかわらず、科学の発達とともにこの思考はますますエスカレートし、脳死や臓器移植、受胎調節、男女産み分け、受精卵凍結、試験管ベビー、遺伝子操作、クローン化など、人間の生と死を人為的に支配し管理しようとして、その勢いはとどまるところををしらない。

“生命”に科学の手をくわえる場合には、どうしても生命のもつ基本的秩序(霊と体とがもつ秩序)を尊重しなくてはならない。これを無視すれば、自然も人類も破滅してしまう。その意味で、現代は生命(神)と科学(人知)の闘いが、地球規模で熾烈[しれつ]に展開されているといえる。

大本の教えには、人間は主神より霊魂と肉体とを与えられたものとして、「人は神の子(神の分霊)、神の宮(分体)」であり、「霊主体従」(霊魂が主で肉体が従)であるとする人間観や死後の存続を説く死生観などがある。人の人格(霊魂)は神霊の末端であり、また肉体は単なる物質でなく霊魂の外郭であり、その人固有のもので霊魂と不離一体の関係を持つ。人の肉体が固有の遺伝子(DNA)をもっていることによっても、それは裏付けられているように思う。

身体的生命の奧には、主神の大生命に連なる固有の霊魂がまだあるのである。霊魂と物質と、またこれが共有する聖なる秩序をみださないように、さらには死後の生涯における霊魂の幸福を損なわないようにしなくてはならない。

「痛いから死にたい」「不格好な姿で生きたくない」という人間の恣意[しい]な願いが、生命本体の消去と引き換えにしてよいほど重いものだろうか。神から与えられた“生命”を自分の意思で抹殺してよいのだろうか。与えられた人の生命は、けっしてそのように軽いものではないと思う。

もっと雄々しく最後まで病と闘いながら、堂々と生き抜くことこそが、尊厳なる生き方、死に方ではないだろうか。

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