上記のように、人間の霊は“霊魂”とよばれ、主の神から付与された分霊で、その本質は「愛」と「信」で構成されている。つまり、人間の霊魂は、主の神(生命の大本源)から分与された末端の愛と信で、これが生命の根源となっている。
聖師はこれについて「最高なる神愛は、いかなる人間もその真の生命をなせるところの実在である。この神愛あるがゆゑに、天人も人間も能くその生命を保持することを得るのである」(『霊界物語』第五十二巻第一章)と、生命の依り所を示している。
このことは、人間の霊魂がもつ「愛」の本質は“熱”であり、「信」の本質は“光”であって、人間の生命にあってこの愛(熱)は形而上では愛情、意志、情熱などと現われ、形而下では体温、体熱となって現われる。また、信(光)は形而上では意識、知性に、形而下では人体の代謝活動などに現われる。
また人間の生命は、物質的存在でなく霊的存在(霊魂)であるため、肉体の生死を越えて存在する。つまり、人間の霊魂には「前世、現世、死後世」とよばれる生涯があって、人間の生命を霊魂よりみるときは一貫して変わることがない。すなわち、霊魂(生命)は永遠に、その霊性の円満化のために輪廻転生をつづけ、天人に向上し、さらに神が“よし”と判断するまでは現界、霊界の間で生死を繰り返し、さまざまな時・所・位の境遇をへ、経験を得て、果てしなく向上進化するのである。
これに関し聖師は『霊界物語』で、登場人物に次のように語らせている。
「高彦『肉体には栄枯盛衰があつて、いつまでも花の盛りでをることは出来ぬ。されどもその本体は、生き替り死に替り、つまり肉体を新しうして、それに入り、古くなつて用に立たなくなれば、また出直して新しい身体に宿つて来るのだ。人間が死ぬといふことは、別に憂ふべきことでもなんでもない。ただ墓場を越えて、もう一つ向うの新しい肉体へ入れ替るといふことだ。 元来、神には生死の区別がない。 その分霊を享けた人間もまた同様である。死するといふことを、 今の人間は非常にいやなことのやうに思ふが、人間の本体としては何ともないことだ』」(第十一巻第三章)
これは植物でも同じことがいえる。植物の種子は、萌芽して葉となり茎となり花となり実となり種子となる。植物の本体は、そのいつの時期をさすのであろうか。人の生命の場合も、受精卵、胎児、嬰児、幼児、少年、青年、壮年、熟年、老年、そして死期を経て精霊となり、さらに霊子、受精卵となって繰り返す。主の神の分霊である人間の生命(霊魂)は永遠であり、その瞬間瞬間の生命はその変化の一過程、一形態に過ぎないし、また肉体の死は霊魂が時、所、位を変え、さまざまな経験をへ、向上し進化していくための一手段にすぎない。
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