おほもと Oomoto

大本 教義に見る 脳死・臓器移植

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はじめに

昭和六十年(一九八五)六月に、大本が「脳死は人の死でない」と脳死臓器移植に異議をとなえて以来、はやくも十五年の歳月がながれた。

その間に、政府が脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)の答申をへて、国会で議員立法による臓器移植法制定の機運を高めるにつれ、教団は幾度となく厚生省(大臣)、国会(衆参両院議員)および関係諸機関(者)に反対声明を出し、各都市では頻繁に講演会を開催した。

平成九年十月に「臓器移植法」(「臓器の移植に関する法律」)が施行され、高知市で第一回の脳死臓器移植が実施されて以後、『異議あり! 脳死・臓器移植』(外郭団体・人類愛善会・生命倫理問題対策会議編・天声社刊)を刊行し、平成十二年十月に予定される「臓器移植法」の見直しに異議をとなえて全国縦断キャラバン隊や街頭署名活動(十二年五月末現在、署名者約八十五万人余)を展開するなど積極的に対応してきた。

大本がこうした行動をとる理由は、現代人が科学を妄信し神の恩恵を忘却するばかりか自然のリズムを崩し、人間社会や地球環境までも破壊し、人の死も臓器取り換えの手段とするまでになった蒙昧さへの啓蒙のためである。また、直接的根拠としては大本の根本教典である出口王仁三郎聖師の『霊界物語』(全八十一巻)に、人の死は心臓の鼓動が完全停止したときであり、心拍がつづく間は霊魂はまだ肉体から分離していないとの教示にもとづいたからである。

大本のこうした霊魂離脱という死の概念からすると、この脳死臓器移植は(1)ドナー(提供者)がいまだ死にいたらない段階での摘出であり、(2)レシピエント(受容者)にドナーの死を待望する非人間的な自利的想念をいだかせる医療であり、さらに(3)ドナーが臓器を摘出され死を迎えたのち、その霊魂が霊界でうけるであろう精神的また幽体的影響、(4)また時間をへてドナーの霊魂が現界に人として再生したときの心身の状態、(5)また生命を“モノ”化した思想がおよぼす人心の荒廃、生命軽視などに思いを馳せるとき、この移植は容易ならないことで、到底この近代科学の暴挙を無視できないと判断したからである。

大本が“脳死は人の死でない”とする根拠は、大本教義の全体――とりわけ死生観、霊界観、人間観など――にもとづくが、それはこれらの教示が一教団の真理のみでなく、出口聖師が霊界探検でえた客観事象であり人類共通の普遍真理とみているからにほかならない。

大本のこうした主張にたいして、現代の臨床医学や免疫学からもこれを裏付ける事例が提示されているが、本稿では医学上の問題は別として、大本の教えの立場からこの脳死・臓器移植問題を取り上げてみたい。


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