宗教的視点から
もともと各宗教宗派にはさまざまな教えや形態があって、そのあり方はけっして一様でない。したがって宗教上の問題を一般論で結論づけることは難しいが、原則的にいって宗教は医学と異なり、物質的肉体的方面よりも心・精神・霊魂・神霊といった心霊的方面を主として人々の心身の安定と世の平安をはかっている。さらにいえば宗教は、人間の“前世、現世、死後世”の三世を通観した永遠的視点から、霊魂と肉体の双方をいかに向上させ安定させるかの役割をになっている。したがって、宗教は医学では見捨ててかえりみない人間の死後にもきわめて重大な意味をもたせている。
周知のように、科学は現代にいたって急速にすすみ、人々に多大な恩恵をあたえたが、一方では自然環境の破壊、人心の荒廃など人類の存続が危ぶまれる深刻な状況を造りだした。こうした弊害にもかかわらず人々の科学にたいする妄信は根強く、今日ではそれに支えられて遺伝子組み換えを実施し、クローン人間も可能なまでに生命問題に深く入り込んできた。
しかし現実には、「生命」は科学をはるかに超えて深遠であり、科学は生命の本質に対しまったくの無力ともいえる。科学はいまだに生命エネルギーをもつ木の葉一枚、髪の毛一本も創造することができない。こうした科学が人間の霊魂を無視したり否定したりしているが、果たしてその資格があるであろうか。
大本では、もともと宗教は“善”の、科学は“真”の立場から、ともに神に向かって進みつつあり、宗教と科学は究極において一致する運命にあるとみて科学を肯定的にみているが、現代の科学専横の行く手には容易ならないものを観取している。
さて、大本の教えでは、人間は霊魂と肉体で構成されると説く。それは人間が物質的存在と同時に霊的存在であることを意味しているが、現代の科学の大勢はこれを認めず、物質的機能によって生命や精神作用が生じるとしている。人々にこのような根拠をあたえるのは、霊魂の世界は物質世界と法則や次元を異にするため、物質的論理をもってその存在が証明できないためであろう。そのため人の脳に生命の本質、精神活動の根源があるとみて、脳死という人の部分死を“個体死”とみなすにいたるのである。
つまり現代科学は、大本の教えで説くように霊魂に生命の本質があり、精神活動はこれによって生じることを認めていない。したがって、そこには唯物的機械論的人間観が生じ、欠陥部品の取り換えと同じ価値観で人の臓器を扱うきわめて歪曲した移植医療が誕生し、人々はこれによってあたかも医学が進歩し、人間に幸福がもたらされるかのように錯覚している。
大本の教えからすれば、移植はこれにたずさわる人々の永遠の霊的生涯にとってこの上もない不幸なことであり、またこの実施によって生じる霊魂界の混乱はただちに現実界に反映し、さまざまな社会的混乱をもたらすとみるのである。『大本神諭』(全七巻)に「斯の世を、この儘に放任して置いたなら、共食いをいたすように成るぞよ」(明治三十三年旧八月十三日)とあるが、こうした移植医療は“共食い”的野蛮医療で、あえていえば医学の邪道とさえいいうる。近世にいたって人々から神が消え霊界や霊魂が消え、いままた新たに「生命」が消えようとしている。
注1 『霊界物語』
大本教祖・出口王仁三郎聖師(一八七一〜一九四八)が、二十六歳の明治三十一年(一八九八)二月、郷里の京都府亀岡市にある霊山高熊山で一週間の霊的修行をした際見聞した霊界の諸事象を大正十年十月十八日から口述した八十一巻にわたる物語。『大本神諭』とともに大本の根本教典。
注2 『大本神諭』
出口なお大本開祖(一八三七〜一九一八)は、京都府福知山市に生まれ、のち出口家の養女として十七歳で結婚、夫の昇天の後、明治二十五年(大本の開教・一八九二)に艮の金神・国常立尊の帰神によって大本を開教した。『大本神諭』は開教から開祖の昇天(大正七年・一九一八)までの間、自動書記的に記した筆先の中から出口王仁三郎聖師が漢字をあてて編纂した天啓の預言警告の書、全七巻。『霊界物語』とともに大本の根本教典。
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