おほもと Oomoto

大本 教義に見る 脳死・臓器移植

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新しい死の概念

今日の脳死・臓器移植がもたらす課題は、一般では医療不信に根ざすものが多いが、この問題をさらに踏みこめば、そこには文化的、社会的な大きな問題が横たわり、人々の死生観、生命観の相違にもいきあたる。

従来、人の死は幾千万年もの間、人々が悲嘆にくれつつ経験的に確かめ信じてきたもので、近代では宗教も医学もともに“心臓死”で一致していた。ところが、医療技術が進み臓器移植が可能になると、医学は心臓死のほかに移植のための“脳死”といういま一つの新しい死の概念を生み出した。

たしかに脳死の状態にある人は、かぎりなく死に近い状態に違いなかろうが、人工呼吸器を着装しているとはいえ、心臓は生き生きと拍動し、体温があり汗もかく。このように外見は生きているとしかみえない温かい人体にメスを入れ、全血液を体外に流出させ、心臓その他の臓器を摘出し、他の人体に移し換える医療は、目を覆うべき悲惨事で、常人としては容易に正視し難く、認め難いことである。とくに農耕民族で伝統的に心身一体観をもつ日本人には、ことさらになじみにくい。

現在の日本の法制度では、死の判定は医師以外にくだせないことになっているが、この問題を真に極めるには、人間の“生命の本質”とその“固有性”が何にもとづくかを宗教的に哲学的に科学的に問わなくてはならない。同時に新しい死の概念の導入が及ぼす社会的、文化的影響がいかに甚大であるかも考慮しなければならない。これらを極めることなく新しい死の概念を誕生させることは、人々の死生観、人間観、人生観、世界観を変える文化史上の大汚点となることも考えねばならない。

世界には、イスラエルなどのように脳死からの臓器移植を行っていない国があり、また国内の世論調査でも、「わからない」との答えを含めると半数以上の人々が脳死を人の死とみていない。このような状況のもとで臓器移植を実施し、実質的に脳死を人の死とみなすことは、そのまま唯物的人間観をそだて植物などの命をいとおしむ心を奪い、人命軽視を助長し血なまぐさい非人間的文化を形成することになる。昨今の人を“モノ”としかみないような無差別的な異常殺人事件の続発をみると、近年にいたり人々の精神が異常な方向に変化しはじめていることを認めざるをえない。

科学者は、技術的に可能なことはどんなことでも実施するといわれるが、原水爆や生物兵器やクローン人間が否定されるように、この世には造り出してはならないものがある。技術的に可能で、しかも人を生かすことなら何を実施してもよい、と短絡的に考えるべきではない。他国は別として、せめてわが国のみでもこうした弊害から人間の尊厳性を守りたいものである。

とくに、「宗教」がもつ死生観からみるとき、この脳死臓器移植を法律で認定したことは、人間の霊魂の永遠の安定と幸福を無視したきわめて無謀な処置といわざるをえない。ことに大本の教えを通じてこの問題をみるとき、形而下における生命のみを尊重し、形而上の生命である霊魂の存在を無視し、個々の固有性を喪失させた機械的人間観を増幅させる現代悪の実態がまざまざとみえてくるのである。


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