死の瞬間
出口聖師の『霊界物語』には、人間の死の瞬間やその後の状況が詳述されている。とくに第四十七巻には、人間の死は心臓の鼓動が全く止むときで、そのとき霊魂は肉体から分離するとされる。この死の瞬間についていま少し詳しくのべたい。
この巻の第十一章には、この分離について「この(心臓の)鼓動が全く止んだ時は、人間の本体たる精霊(霊魂)は、ただちに霊界に復活し得るのである」とあるが、このほかにも肺臓と心臓の「活動が全く止む時こそ、霊と肉とがたちまち分離する時である」とか、心臓の「鼓動全く止むを待って、全部脱出するのである」、また「心臓の鼓動が全く休止するまで、精霊(霊魂)がその肉体より分離せない理由は、心臓なるものは、情動に相応するがゆゑである」などと、同じような表現が四カ所も記されている。またそこには「全く」の語が共通して用いられ、心拍の“完全停止”がことさらに強調されている。
この四カ所の「全く」には、深い意味が込められているようである。実例をあげていえば心臓死の場合、通常、病院の病室などで医師は心拍を示すモニターの波動が平坦になった段階で死を告げるが、この平坦波動をより精密なモニターに写し出すと微細な波動が表れ、これがしばらくつづくといわれる。この段階では心拍はまだ完全に停止しておらず、聖師のいう霊魂離脱のときでもない。この“微細な波動”が完全に消失したときが心拍の「全く止む」ときで、霊魂が肉体から完全に離脱したときであろう。「全く」はこうした“微動”状態を前提とした表現のように思われる。
四半世紀前までは、医師が三徴候(心拍停止、呼吸停止、瞳孔散大固定)で心臓死と診断した後、棺桶の遺体がむくむくと起き上がった、などの話はしばしば耳にしたものである。この場合などは、心拍が止まったと診断されても完全に停止していなかった例といえる。死亡確認後、二十四時間を経ないと荼毘に付すことができないのも、こうした事例があるからであろう。
周知のように、法律では「脳死とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的(再びもとの状態に戻らないさま)に停止するに至ったと判定されたもの」となっている。しかしこの状態にある人の心臓は、人工呼吸器などの生命維持装置に支えられているとはいえ生き生きと鼓動している。鼓動が停止した心臓を移植しても活着しにくいので、拍動する心臓を摘出する。おかしなことだが、脳死では二十四時間どころか寸刻を惜しんで摘出され、法律はこれを“死”とし、同じ脳死状態でも摘出されない人は“生”とされるのである。
繰り返すようだが大本の教えからすると、この状態ではまだ霊魂は肉体から離脱していない。たとえ脳は絶対不可逆的状態でも、まだ人の個体死とはいえない。したがってこの拍動する心臓がレシピエントに移植されることは、死んでいない人からの移植で許されることではない。
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