おほもと Oomoto

大本 教義に見る 脳死・臓器移植

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愛の行為か

脳死・臓器移植は、仏教者の一部が布施を意味する“菩薩行”とみたことから、マスコミは“愛の行為”と報道し、今日ではこれが一般的理解であるかのように受けとられている。はたしてそうであろうか。

現代のように人間至上主義に立つ世相にあっては、安楽死思想にみられるように、人々は「価値なき生命」を「自己の意思」で消去する自己決定権をもつと考えやすい。こうした考えからすれば、脳死の場合も自分の脳が「不可逆的な機能喪失」におちいり、「心臓死にいたる絶対的状況」にあるのだから自分の意思によって肉体の一部を「他人に譲渡する権利」があると判断するのである。

このように現代の唯物思潮は、肉体の終焉期にいたった場合、他人の生命を救うために自分の肉体を提供することを、愛の行為と錯覚させるほどの誤謬性をもっている。換言すれば、多くの人は思考の一部で、自分の肉体は「己れのもの」で、自分の意思でこれを左右してもよいという“傲慢性”を抱いているのである。

もともと人の「生」も「死」も天与のもので、ともに神(仏)の御手に属している。大本では人の霊魂と肉体は、神から賦与された神の分霊、分体で、ともに個人の私有物でなく神からの借り物であり、神の御心のままにこれを活用し、本来の用務を全うさせるべきとしている。

『霊界物語』には、これに関し次のように示してある。「神は吾らの霊の祖、体の祖と現れませば、吾らが五尺の肉体も、皆大神の借り物ぞ」(第三十五巻第一章)、またその登場人物には「吾々の霊肉ともに決して私有物ではありませぬ、みな神様のあづかり物です」(第十四巻第七章)とか「人間の体は神様の生宮とある以上は、どこまでも大切にこの肉体を守らねばならないのでございますが、自分の心の愚昧より、大切なる肉の宮を損なひ破り、吾々の霊肉を与へ下さいました貴神さまに対して、お詫びの申し上げやうもございませぬ。誠にすまない不調法をいたしました」(第四十三巻第四章)と語らせている。

このように人の身体は、神からの「借り物」「あずかり物」であり、人は生涯をかけて自分の肉体を毀損しないよう留意し、死期に際しては元の姿のまま神に感謝して返さなくてはならない。

このことは葬儀や埋葬のあり方にもいえる。遺体や遺骨を丁重に埋葬する習俗も、一つには神(仏)への感謝の表明である。自分の意思で葬儀を放棄したり散骨を実施したりするのは、自分の肉体を卑しめることにつながり神(仏)に対する感謝の念に欠けた処置といえる。外国の習俗は別として、わが国では散骨などはよほど考えねばならないであろう。

脳死・臓器移植は「善意にもとづく命のリレー」などと喧伝されるが、それは無知からくる誤った善意で、けっして是認されてよいものではない。被創造者にすぎない人間は、自分の意思で恣意的に生命を終えさせたり肉体を毀損させたり譲渡したりする権能はないのである。造物主から日々に被る恩恵を無視した傲慢な行為が、どうして愛の行為といえるであろうか。

霊魂と呼ばれる人間の心霊が身体におよぼす影響や活動、また人間の死後の状態などについて、いささかも明白な知識ももたないまま、脳死の状態にある人の臓器を他者に移植するなどの行為は、人間の思い上がりというよりほか言いようがない。


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