おほもと Oomoto

大本 教義に見る 脳死・臓器移植

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虎穴問答と玉全

出口聖師の第二次大本弾圧事件(一九三五―四五)中のエピソードに「虎穴問答」がある。聖師は、大阪控訴院で時の裁判長にたいし「人虎孔に墜つ」の禅語をもって問答をした。

それは、人は虎が棲む穴に落ち込んだ場合、いかにすべきかとの問いである。聖師はこれに次のように答えている。『逃げても戦っても必ず虎に食われるのであれば、私は自らすすんで虎に食われてやる。それは食われた後に、人間としての愛と誇りが残るからだ』と。これは虎が官憲で、落ち込んだ人を大本にたとえたもので、官憲がいかなる手段をもちいてでも大本を罪に陥れようとしていることの例えとしたのである。

この問答にある“人が自らの身体を虎に与えること”は脳死臓器移植の場合と同じで、聖師は脳死臓器移植を愛の行為として肯定しているようにみる向きもある。しかし、ここで人体を虎に与えたのは、他に選択肢がない場合のことで、脳死臓器移植の場合はドナーカード(臓器提供意思表示カード)記入に選択の余地があり、けっして同一事態ではない。レシピエントは虎でなく、ここでは食われなくて済む選択の自由がある。

聖師はつねに“われよし”の自利心を強く否定し、利他的な言・心・行のあり方を説いたが、利他的とはいえ己を破滅させるような“玉砕主義”は否定し、どんなときでも最後まで自分の心身を保全する“玉全主義”でなくてはならないと主張した。同じことについて、人は“捨身活躍”でなく“舎身活躍(家を整え身を保全して活躍すること)”でなくてはならないと、当て字を用いて説いたりしている。

また聖師は、湯呑みや茶碗は便利だからといって灰皿にしてはならない、下駄の履き古しは燃えるからといってカマドの薪にしてはならないと諭し、万物のそれぞれがもつ本来の使命を最後まで全うさせるのが愛善であり、神の心にかなうと説いた。つまり、人間のそれぞれの肉体は本来神からの固有の賦与物で、人は最後までこれを自ら保全すべき責任があり、死後は謹んでこれを神に返すべきで、生前死後を通じけっして他の用途に当てたりしてはならないとしたのである。

死という霊肉分離の最重要時に、他者のレシピエントを生かすためとはいえ、霊魂の安定を破壊し、温かい皮膚を裂き拍動する心臓を取り出し移植するという、きわめて不条理な摘出を国は法制化し、マスコミは“愛の行為”と称揚し、巨大な経費でイベント化し、さらにドナーカード所持を国をあげ奨励する。すなわち、他の「生命を救う」を合い言葉に、この不条理な移植を肯定し、霊魂の大切な霊界への復活である人の死を軽視しつづけるのである。


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