おほもと Oomoto

大本 教義に見る 脳死・臓器移植

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肉体の所有者

いま少し人体の所有権について触れたい。

先に、人間の肉体は、神からの「借り物」「あずかり物」であり、人間は自分の意思でこれを自由にする権能はないとのべた。すなわち、人間には自分の“生命の終結”や“肉体の譲渡”を決定する権能がないというのである。このことは一般でも人間に自殺の権能がないとされているのと同じである。

脳死臓器移植を承認することが、不可逆的状況にある肉体を譲渡する意思の決定を示すものであるならば、ドナーカードの肯定的記載は一種のリビングウイル(生前発効遺書)であり、この意思決定は自殺や安楽死のそれと本質的にどれだけの差異があるのか疑問である。

自殺や安楽死の多くは精神的窮地に陥った場合の自己生命の放棄であり、脳死臓器移植は肉体的窮地に陥った場合のそれであって、事前における両者の意思決定は本質において大きな隔たりはないように思われる。

このように見るとき、国が脳死臓器移植を法律で認め、ドナーカード記載を奨励することは、国が人々に自殺や安楽死を奨めていることと本質的にどれだけの違いがあるであろうか。もし、国が人間の身体をその人の所有物と真に認め、個人の意思を真に尊重するのであれば、自殺も安楽死も同様に認めねばならないと思われる。

各宗教において自殺は、ほとんど共通的に罪悪の最たるものとされている。これについて出口聖師は『霊界物語』で登場人物に次のように語らせている。

「自殺は罪悪中の罪悪でございまする。あなたの肉体は決して貴女の物ではない。身魂(身体と霊魂―注・筆者)ともに大切な神様の預かり物、左様な気侭なことをなさいますと、末代その罪は赦されませぬぞ」(第二十五巻第四章)、「あなたが自殺するといふことは罪悪中の罪悪ですよ。やむを得ずして命が終ったなら天国に往けませうが、吾が身勝手に命を捨てたものは天国へは往けませぬ。きっと地獄に往きますから、お考へ直しを願ひます」(第六十五巻第十八章)

繰り返しのべるように、人が脳死臓器移植の実施を事前に決意することは、“自己の生命や肉体の放棄と譲渡”の決意であり、自分にこれにたいする自己決定権があるとしての行為である。

現代人の多くは、近代民主主義の基本原理とされる「個人の意思の尊重」「自己決定権」の思想を、自分の生命の処し方にまで拡大し、人間が神から分霊、分体を賦与された「神の子(神の分霊)、神の宮(神の分体)」であることや“己のものは何一つなく、一切は神(創造主)から与えられたもの”との真理を忘却し、人間至上主義、物質万能主義、科学技術万能主義に心酔し、人間の生命も肉体も自分のものと増長し慢心しているのである。“自己のものは何一つない”の観念は神への絶対の感謝と帰依の心を生み、宇宙との一体感をつくりだしていく。これは被創造者がもつ必然的想念といえる。

大本の教えでは、こうした“神のものを私する罪”を「天の賊」と呼んでいる。『霊界物語』に天の賊とは「大神の所属となすべきものを、おのれに奪はむとするがゆゑに、神より天の賊と称へらるるのである」(第四十七巻第九章)とあり、繰り返し戒められている。このように、神からの「借り物」の肉体を恣意的に“己れの物”として他に与えることは、“愛の行為”どころか神の諭される天の賊的行為であり、これはドナーの“肉体放棄”のみでなく、レシピエントの“われよし”の想念にも当てはまることはいうまでもない。

注3 第二次大本弾圧事件

第二次大本弾圧事件(一九三五〜一九四五)、大本の説く平和主義、普遍主義に対し時の政府は治安維持法、不敬罪、出版法、新聞紙法違反の容疑で弾圧。当局は教団聖地の没収、神殿など全国の数百にのぼる教団施設を強制破壊。出口聖師夫妻は六年八ヶ月未決のまま獄舎に収監されたが、第二次世界大戦終結とともに解決した。


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