おほもと Oomoto

出口王仁三郎の芸術観(抜粋)

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一 芸術と宗教

芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷(うつ)らしむる、人生の大導師である。地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる嚮導者(きょうどうしゃ)である。ゆゑに吾々は左手(ゆんで)を芸術に曳かせ、右手(めて)を宗教に委ねて、人生の逆旅(げきりょ)を楽しく幸多く、辿り行かしめむと欲するのである。矛盾多く憂患繁き人生の旅路をして、さながら鳥謳ひ花笑ふ楽園の観あらしむるものは、実にこの美しき姉妹、即ち芸術と宗教の好伴侶を有するがゆゑである。もしもこの二つのものがなかつたならば、いかに淋しく味気なき憂き世なるか、想像出来がたきものであらうと思ふ。人生に離れ難き趣味を抱かしむるものは、ただこの二つの姉妹の存在するがゆゑである。

そもそもこの二つのものは、共に人生の導師たる点においては、相一致してゐる。しかしながら芸術はひたすらに美の門より、人間を天国に導かむとするもの、宗教は真と善との門より、人間を神の御許に到らしめむとする点において、少しくその立場に相異があるのである。形、色、声、香などいふ自然美の媒介を用ゐて、吾人をして天国の得ならぬ風光を偲ばしむるものは芸術である。

宗教は即ち然らず、霊性内観の一種神秘的なる洞察力によりて、直ちに人をして神の生命に接触せしむるものである。ゆゑに必ずしも顕象界(けんしょうかい)の事相を媒介と為さず、いはゆる神智、霊覚、交感、孚応(ふおう)の一境に在つて、目未だ見ず耳未だ聞かず、人の心未だ想はざる、霊界の真相を捕捉せしめむとするのは、宗教本来の面目である。

芸術の対象は美そのものであり、しかも美は神の姿にして、その心ではない。その衣(きぬ)であつて、その身体ではない。『神は霊なればこれを拝するものもまた、霊と真とを以てこれを拝すべし』と言つたキリストの言葉は万古不易の断案である。美を対象とする芸術は、よく人をして神の御姿を打ち眺めしむる事を得るも、いまだ以てその心を知り、その霊と交はり、神と共にあり、神と共に動き、神と共に活きる、の妙境に達せしむることは出来得ない。たとへば僅かに神の裳裾(もすそ)に触(さわ)らしめることは出来得るも、その温かき胸に抱かれ、その生命の動悸に触れしむることは、到底望まれない。

芸術の極致は、自然美の賞翫悦楽により、現実界の制縛を脱離して、恍として吾を忘るるの一境にあるのである。それゆゑ、その悦楽はホンの一時的で、永久的のものではないのである。その悠遊の世界は、想像の世界に止まつて、現実の活動世界でなく、一切の労力と奮闘とを放れたる夢幻界の悦楽に没入して、陶然として酔へるが如きは、即ちこれ審美的状態の真相である。

もしそれ宗教の極致に至つては、はるかにこれとは超越せるものがある。宗教的生活の渇仰憧憬(かっこうどうけい)して已まざるところのものは、自然美の悦楽ではなく、精神美の実現である。その憧憬の対象は形体美ではなくて人格美である。神の衷(うち)に存する真と善とを吾が身に体現して、永遠無窮に神と共に活き、神と共に動かむと欲する、霊的活動の向上発展は、即ちこれ宗教的生活の真相であらうと思ふ。芸術家が、美の賞翫もしくは創造によつて、一時人生の憂苦を忘るるが如き、軽薄なものではない。飽くまでも現実世界を聖化し、自我の霊能を発揮して、清く気高き人格優美を、吾と吾が身に活現せなくては止まないのが即ち宗教家の日夜不断の努力奮闘であり、向上精進である。

宗教家の悦楽は、単に神の美しき御姿を拝する而已でなく、その聖善の美と合体し、契合し、融化せむと欲して進みゆく途上の、向上的努力にあるのである。死せるカンバスや冷たき大理石を材料とせず、活ける温かき自己の霊性を材料として、神の御姿を吾が霊魂中に認めむとする、偉大なる真の芸術家である。ゆゑに宗教家の悦楽は、時々刻々一歩一歩神の栄光に近づきつつ進み行く、永久の活動そのものである。ゆゑにその生命のあらむ限りは、その悦楽は常住不変のもので、その慰安もまた空想の世界より来たるに非ず。最も真実なる神の実在の世界より来たるものである。

『我が与ふる平安は、世の与ふるところの如きに非ず。なんぢら心に憂ふる勿れ、また懼(おそ)るる勿(なか)れ』とは正しく這般(しゃはん)の消息を伝ふるものである。美の理想を実現するには、まづ美の源泉を探らねばならぬ。その源泉に到着し、これと共に活き、これと共に動くのでなければ実現するものではない。しかしてその実現たるや、現代人のいはゆる芸術のごとく、形体の上に現はるる一時的の悦楽に非ず、内面的にその人格の上に、その生活の上に活現せなくてはならないのである。真の芸術なるものは生命あり、活力あり、永遠無窮の悦楽あるものでなくてはならぬ。

瑞月(ずいげつ、※注・王仁三郎のこと)はかつて芸術は宗教の母なりと謂つたことがある。しかしその芸術とは、今日の社会に行はるる如きものを謂つたのではない。造化の偉大なる力によりて造られたる、天地間の森羅万象は、何れも皆神の芸術的産物である。この大芸術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならぬ。瑞月が霊界物語を口述したのも、真の芸術と宗教とを一致せしめ、以て両者共に完全なる生命を与へて、以て天下の同胞をして、真の天国に永久に楽しく遊ばしめんとするの微意より出でたものである。そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書(『霊界物語』)を出版するに至つたのである。

大正十二年七月十七日(出口王仁三郎著『霊界物語』第六十五巻「総説」)

二 神の作品

宇宙万有を造られた真神の作品のうちで、もっとも繊細緻密霊妙をきわめた最上乗のものは人間である。人間においても、脳髄と肉体の曲線美とはその代表点ともいうべきものであって、万物これに比すべきものは無いのである。(中略)いかなる芸術家といえども、完全に神の作品を描出または模塑することの不可能であることは言うまでもない。たとえば技神に入った画家が人物や動植物などを描くにしても、ただその視得る部分と動作の刹那のすがたを平面的にしか写すことができないのである。これを思うと画を描くことがいやになってしまう。それで自分は、せめて霊だけなりと入れて活きた画にしようと思い、満身の霊をこめて体で描くからいわゆる一気呵成の運筆となるのである。(出口王仁三郎著『月鏡』)

三 宗教より芸術へ

わたしはかつて、芸術は宗教の母なりと謂ったことがある。しかしその芸術というのは、今日の社会に行わるるごときものをいったのではない。造化の偉大なる力によって造られたる、天地間の森羅万象を含む神の大芸術をいうのである。わたしは子たる宗教を育てんがために、永年微力をつくしたが、子はどうやら育ちあがったらしいので、この方面は子に譲り、昭和三年三月三日から、親たる芸術を育てんと努力しつつあるのである。明光社(※注・現「楽天社」)を設けて、歌道を奨励し、大衆芸術たる冠句を高調し、絵を描き文字を書き、楽焼をなし、時に高座に上って浄瑠璃を語り、ぼんおどり音頭をさえ自らとっておるのである。神の真の芸術を斯の上に樹立することが、わたしの大いなる仕事の一つである。(出口王仁三郎著『月鏡』)

四 宗教の母

わたしが、宗教が芸術を生むのではなく芸術が宗教の母であると喝破したのは、今の人のいう芸術のことではないのである。造化の芸術をさして言うたのである。日月を師とする造化の芸術の謂いである。現代人の言うている芸術ならば、宗教は芸術の母なりという言葉が適している。(出口王仁三郎著『月鏡』)


  
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