大本の特徴として、大本が日本、世界の「型」(ひな型)となっている、という教えがある。「綾部の大本は、世界の大元(おおもと)と成る大望(たいもう)な処(とこ)であるから、此(こ)の大本に在りた事は皆世界にあるから、此の中に仕(し)ておる事が、世界の形(かた)に成るのであるから……」(大正5年旧11月21日、『大本神諭』)
昭和10年の第二次大本事件のとき、綾部、亀岡の両聖地はもとより、全国の大本の施設は残らず破壊され、亀岡の至聖所・月宮殿はダイナマイトで爆破された。それから10年、敗戦を迎えた日本の国は、10年前の両聖地の姿とそっくりであった。日本には占領軍が進駐し、日本全土が、その統治下に入った。聖地が取り上げられた“型”の実現である。
大本事件(第二次)がおこったのは昭和10年12月8日未明、数百の武装警官による一斉検挙に始まる。当時、松江(島根)宍道湖(しんじこ)辺の大本別院にいた出口王仁三郎教祖も、武装警官の急襲にあう。太平洋戦争は、同16年12月8日未明、真珠湾(しんじゅわん)の奇襲に始まる。
大本事件は昭和20年9月8日、大審院の判決によって、無罪が確定し、結末を告げた。太平洋戦争は同26年9月8日、サンフランシスコ講和条約によって、結末を告げた。
王仁三郎、二代教主らの未決勾留期間は6年8カ月(昭和10年12月〜17年7月)。連合軍による日本占領も6年8カ月(昭和20年9月〜27年4月末)。
さらに細かく検証すると、他の事象についても年月や月日が符合。“偶然の一致”では片づけられない史実が残されている。
上のような事例は大本の中には、枚挙にいとまがない。
大本における“型の思想”は、さらに“先駆け”の働きも示している。それは、大本で推進する活動が、のちに世界に波及していく一面である。
大本が宗教協力を積極的に推進しはじめたのは大正末期。今日でこそ、宗教間の交流が頻繁に行われるようになったが、当時はまさに先駆的活動であった。原水爆反対運動の先陣をきったのも大本であった。三代教主によって強く進められた日本伝統文化を重んじる姿勢も、敗戦後50年を経て、ようやく日本人の関心にのぼりつつある。
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