大本が綾の聖地に開教して十年目となる明治三十四年のこと、出口なお開祖によるお筆先(旧2月6日)に「今年は絶命の世の立替えになりたから」として、丹後の元伊勢と出雲へ参拝するようにとのご神示がありました。このお筆先には「世に落ちておられた神さまがこれから表におあらわれになる」とも示されていて、当時の信徒一同は緊迫した思いで襟を正しました。
四月十九日(旧3月1日)、元伊勢に伝わる「水晶のお水」を汲んでくるようにとの再度のお筆先があり、このご用はきわめて大切だと受けとめられて、事前に下見(木下慶太郎氏)が遣わされました。元伊勢から下見が帰苑し、四月二十五日(旧3月7日)、〈元伊勢お水のご用〉と〈出雲火のご用〉に関する次のご神示がありました。
「元伊勢のうぶだらいと産釜の水晶の御水は、昔から傍へも行かれん尊い清き産水で在りたなれど、今度の世の建替えに就いて、綾部の大元から、因縁のある霊魂に大望な御用をさして、世を立直すには、昔の元の水晶の変わらん水を汲りに行らしてあるぞよ。艮の金神の差図で無いと、此の水は滅多に汲りには行けんのであるぞよ。此の神が許しを出したら、何処からも指一本さえる者もないぞよ。
今度の元伊勢の御用は、世界を一つに致す経綸の御用であるぞよ。
モウ一度出雲へ行って下されたら、出雲の御用を出来さして、天も地も世界を平均すぞよ。此の御用を済まして下さらんと、今度の大望な御用は分明かけが致さんぞよ。解りかけたらば速いぞよ。世の立替えは、水の守護と火の守護とで致さすぞよ。世の立替えを致すと申して居りても、如何したら世が変わるという事は、世に出て御いでる神様も御存知は無いぞよ。肝心の仕組は今の今迄申さぬと、出口に申してあるぞよ」(明治34年旧3月7日、『大本神諭』第一巻)
四月二十六日(旧3月8日)、開祖さまはただちに旅装を整えられ、出口王仁三郎聖師、出口すみこ二代教主、役員信徒ら一行四十二人とともに元伊勢(京都府加佐郡大江町)にご出修。丹後宮川(五十鈴川)のほとり、「天の岩戸」の下流にある産釜・産だらいの清水―神代の昔から汲みとられたことのない清らかな「水晶のお水」―を頂かれ、綾の聖地にお帰りになりました。
この清水は開祖さまのご指示により、大本の井戸(金明水)と元屋敷の井戸(銀明水)などに差し入れられ、さらに五月二十七日(旧4月10日)、竜宮海(沓島と冠島の間の海域)に注がれています。
元伊勢のご用が終わってまもなく〈出雲火のご用〉が引き続き行われました。
明治三十四年七月一日(旧5月16日)、開祖さま、聖師さま、二代さまをはじめとする一行十五人が、曇り空の朝、徒歩にて綾部をご出発、山陰道を北西に進み、遠く出雲大社をめざしてご出修の旅に出られました。開祖さまはこのとき御年六十四歳(数え66)、聖師さま二十九歳(数え31)、二代さま十八歳(数え20)。聖師さまが大本入りされてから、ちょうど二年目のことでした。
ご出修の主な目的は出雲大社に伝わる「消えずの火」を頂くことでした。一行の身なりは他のご出修と同様、木綿の着物に菅笠とござ蓑、さらしの脚絆に紙まきぞうり。しかしこのときばかりは、十曜の神紋の入った揃いの浅黄の裃の着用を、全員が許されての旅だちでした。
綾部から大社までの道のりは片道約三百キロ余り、往復で約六百キロは優に超します。当時は山陰本線がまだ開通しておらず、山陰道の山坂や海岸沿いの旧道を徒歩で進み、途中小さな船便も利用されて、往復二十日をかけての気の遠くなるような長途の旅でした。
開祖さまはすでにご還暦をすぎておられましたが、梅の杖を手に、背筋を伸ばされて、「神さまが後ろから押されるので、ついはやく歩くのや」と同行の者におっしゃりながら、終始一行の先頭に立たれて歩を進められました。
七月六日、一行は賀露の港から海路で島根半島突端の美保関まで行かれる予定でしたが、荒天のため船が出ず、三日間、雲井旅館を賀露の宿として投宿されました。このとき聖師さまは、大きな日輪が二代さまのお腹に宿られるという霊夢をご覧になり、その霊夢の通りに、翌年出口直日三代教主がお生まれになりました。
一行はコースを変更して陸路を進み、十日、橋津から船を仕立てて美保関に渡り、美保神社にご参拝。船を乗りかえて中海を渡り、松江の大橋旅館にご一泊。さらに宍道湖を渡って平田へ。上陸後、徒歩で大社町へ向かわれ夕刻ご到着。
七月十二日(旧5月27日)、出雲大社に参拝されました。一行は拝殿で神楽をご覧になったあと八足門内に参入し礼拝。開祖さまは長い祈願をささげられ、一同もこれに従いました。
出雲大社は日本最古の社の一つ(注1)で、開祖ご一行がもとめられた「消えずの火」とは、この出雲大社において神代から代々引き継がれ、絶やさずに守られてきた神火のことであり、国造代がわりの「火継ぎの神事」に用いられるなど(注2)、出雲信仰の根幹にも関わりきわめて重要視されている神火でした。
懇望をうけた大社側にとっても、神火を他に分けたという前例がなく、交渉は容易ではありませんでしたが、大社側からついに了解が得られました。桧皮製の火縄に点じられた「消えずの火」と、あわせて、瑞垣内の清砂(社殿床下のお土)、拝殿横の御饌井の真清水が神官から一行に手渡されました。この御饌井の水も神火同様、本来は他に分けるものでなく、大社の主祭神に供えられる真清水でした。
このような前代未聞の譲渡が、わずか一両日中に実現したことは不思議でさえあり、神さまの深いご摂理がはたらいたと思わずにはおれません。
翌十三日、神命のご用を果たされた一行はただちに帰途につきました。稲佐の浜から松江丸に乗船し、島根半島をめぐって境港に上陸。米子をへてふたたび海路を進み、賀露ヶ浜、鳥取砂丘をすぎたあたりの海岸に到着。さらに陸路の山道を通って岩井温泉から村岡、福知山へ。福知山では信徒二百人の出迎えを受け、七月二十日(旧6月5日)二十日間の旅を終え、一行は綾部に安着されました。
火縄に移されていた神火は大切に捧持されてきましたが、道中一部の火縄が旅人に汚されたり波しぶきで消されたりして、最終的には聖師さまが捧持されていた火縄のみが最後まで消えずに残りました。聖師さまによって守られた「消えずの火」が神前のロウソクに移されて、ご奉告の祭典を執行。ご神火は、その後も火鉢の中で「埋み火」とし、火番が決められて、ご神前で絶やさず守り続けられました。その神火は百日間守られたあと、「天に預けるように」との開祖さまのお言葉があって、ロウソク十五本にお移しされ 天へと帰されました。
こうして神代から受けつがれてきた出雲の「消えずの火」は綾の聖地の天へと帰り、今日では神体山・本宮山から、教主代がわりの火継ぎの神事に用いられるほか、毎年節分の夜、斎主によって採火され、長生殿神前に献じられて、節分大祭にひきつづいて行われる天地人一切を潔斎する大祓い神事などに用いられます。
ご神火とともに出雲から捧持されてきたお土(瑞垣内の清砂)は、開祖さまのご指示に従い、出雲から帰ってまもない七月二十三日、大本の神屋敷を定める「宮屋敷取り」に用いられました。聖師さまは「神屋敷定めむとして大社の清砂経綸の霊地に撒布す」と詠まれています。
ご指示を受けた役員らがお土を撒布するために、本宮山や龍門館(明治32年12月、大島景僕氏から購入した大本の広前。現在の綾部神苑「金明水」のあたり)周囲のほか、第一班は由良川(和知川)に沿って下流に進み、位田の渡し場から中筋村をへて帰苑。別の一班は和知川に沿って上流に進み、本宮山南側を流れる和知川の支流・田野川をさらに上り、安場村から四ツ尾山(標高二八七メートル)を一周して中筋村をへて帰苑。お土が撒布された地域は旧綾部町内のほぼ全域に及び、綾部中心部の二キロ四方を囲むように撒かれました。(上記の「お土撒布(宮屋敷取り)の略図」参照)
当時大本が所有していた土地はわずかに龍門館辺りしかありませんでしたが、この「宮屋敷取り」が行われて以降、綾部神苑は広大な敷地へとしだいに広がっていきました。
またその一カ月後の八月二十一日には、京都市内の二条城周辺、および鞍馬山近辺などにもお土が撒かれています。
出雲から捧持されてきたお水・御饌井の真清水は、元伊勢のお水とともに金明水の井戸などに差し入れられました。(この金明水は翌年3月7日、「水晶の種」としてご聖誕になった三代さまの産水として用いられた)
残りのお水は七月二十五日(旧6月10日)、開祖さま、聖師さま、二代さま、その他信徒ら六十八人が沓島現地に参拝し、開祖さまは「元伊勢のお水と出雲のお水と、竜宮館のお水(金明水)と一緒にして竜神さまにお供えする」とおっしゃって、釣鐘岩の絶頂から眼下の海原(竜宮海)に向けてうやうやしく撒布され、世界平和のご祈願をなさいました。その折「この水が三年たてば世界中へ回るから、そうしたら世界が動き出す」ともおっしゃっていますが、そのお言葉通り、三年後の明治三十七年(一九〇四)二月日露戦争が始まり、世界史が大きく動きはじめました。また同年、明治三十七年のご神示に「明治三十三年から丹後の雄島へ参り、雌島開きと云うような、昔から人民の行かれなんだ所を、今度二度目の世の立替えに付いて開かして在るのは、大望な事で在るなれど、人民からは何も解らんなれど、鞍馬山へ往ったのも、是も大望な仕組で在りたぞよ。出雲へ参拝を致したのも、大望な事ばかりでありたぞよ」(明治37年旧正月16日、『大本神諭』第三巻)とあり、さらに「元伊勢の生のお水で世界の泥を澄ますのであるから、水は元伊勢、火は出雲、水と火とで世界には厳しき事があるよって、世界の人民の身魂の洗濯致さんと、厳しき事が始まるぞよ」(明治37年旧2月10日)とのお筆先も出されました。
出雲火のご用は、明治三十三年(一九〇〇)から同三十八年(一九〇五)にわたる沓島・冠島開き、鞍馬山参り、元伊勢お水のご用、弥仙山岩戸ごもりと岩戸開き、沓島ごもり、そして大正五年(一九一六)の神島開きなど、開祖さまによる一連のご出修の神事の一環として行われたものです。別表「開祖さまによる主なご出修」裏表紙参照。
ご出修は大本神業上重要な意義をもつとされますが、神界の秘儀にもとづき、内義的神的にうけとめられるべきもので、その真意は容易にはかり知ることはできません。明治二十五年に「艮の金神」のみ名によって国祖・国常立尊が丹波の綾部に再現されましたが、この大転換期にあたり、開祖さま、聖師さまのみ手によって、わが国の神代から伝わる尊い神水と神火 ―元伊勢のお水と出雲のお火― が綾の聖地に移され、このことが「型」となって「神火」と「神水」のご守護、ご用によって精神界と物質界の浄化がはかられ、世界の汚濁が清め澄まされ、三千世界の立替え立直し、みろくの世建設の経綸が、大本から日本、世界へと拡大されてゆくことの深い内義が秘められているものと拝察されます。
とりわけ昨今、人心の悪化とそれに伴う地球規模の異常気象、天災などが各地で頻発し、同時に人災として政治、経済、文化、教育、宗教など、あらゆる方面での深刻な事件・問題が表面化するなど、人類が直面する世界的大激動を目のあたりにするとき、国祖の大神さまが百年前に宣言された「世界の大洗濯、大掃除」「世界を一つに致す」「天も地も世界を平均すぞよ」とのご神示が、より強くひびいてまいります。
出雲大社の起こりは神代伝承にあり、わが国最古の神社の一つとされ、その歴史は今なお謎に包まれています。
大社の他の古称は「天日隅宮」「出雲大神宮」「巌神之宮」「杵築大社」「杵築宮」など。学説では、大和文化の対極とされる古代の日本海文化の中心地であったとされています。祭神の大国主神は記紀神話によると、天孫降臨以前の葦原の中津国を治めておられた神さまで、素盞嗚尊の御子。本殿後ろには素盞嗚尊を祭る素鵞社があります。
神社建築の最古様式を伝える大社造りの本殿は高さ八丈(約24m)。社伝によると上古には三十二丈(約97m)、中古(平安時代ごろ)には東大寺大仏殿をこえる十六丈(約48m)あったとされています。2000年四月の発掘調査で、境内地から巨大神殿(本殿)跡が出土し、木造建築としては世界最大の五十m近い「並外れた高さ」のものであったことが確認されました。
また、本殿北方の八雲山は古来禁足地とされていますが、高さ三十二丈といわれ、上古、古伝にいわれる途方もない本殿の高さはこの八雲山が遠い昔、大和の三輪山のように神体山として仰がれていたためではないかとも考えられています。山上には磐境(神の御座所)があるともいわれます。
出雲大社の祭祀家。出雲大社の「社伝」によれば、天照大神(伊勢神宮・内宮に鎮座)の第二の御子の天穂日命が出雲大社の創建とともに「国譲り」をされた大国主神にお仕えになり、それ以降、天穂日命の神裔が今に至るまで出雲国造と称して、その祭祀に仕えているとされます。現在の国造は第八十三代千家尊祀・出雲大社宮司。「国造」は「くにのみやつこ」とも読まれ、大和朝廷以降、各地におかれた任官名です。
火のご用100周年記念祭典 参拝のしおりより
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