大 本 本 部
「臨時脳死及び臓器移植調査会」(脳死臨調)は本年1月22日、最終答申をまとめ宮沢首相に提出した。それは少数意見を併記したものであるが、脳死を「人の死」とし、脳死者からの臓器移植を認めるものであった。
大本教団では、早くから脳死は「人の死」でないとする立場を表明してきたが、去る平成3年12月3日、脳死臨調に新たに「反対声明」を送付し、最終答申の作成にさいし慎重な対応を求めた。それだけにこの答申内容は遺憾である。
この答申の第一章の2には、近年の医学・生物学の死の定義が示してあり、そこには有機的「統合性が失われた状態をもって死とする」とし、「たとえその個々の臓器・器官がばらばらに若干の機能を残していたとしても、もはや“人の生”とは言えない」とあるが、この表現の曖昧さに驚きを禁じ得ない。
この表現は大きな幅を持っており、いかなる状態の段階を示すかが不明である。この場合、おそらく竹内基準にもとづく脳死状態をさすものと思うが、この死の定義からすれば、脳死者が出産した事例などは、どのように理解したらよいだろうか。有機的「統合性が失われた状態」「ばらばらに若干の機能を残して」いる状態で、出産が可能だろうか。出産を可能にするには、有機的統合性と生命と呼ぶにふさわしい機能が体内に残っていたからではないだろうか。
わたしたちは、さきの「反対声明」で、人間の生命機能の源泉は主神にあり、人間は各自に主神より“固有の霊魂”と”固有の肉体”とが与えられているとしている。また、人間の死は、その霊魂が肉体から完全離脱のときをいい、それは心臓の鼓動の完全停止のときであって、人工呼吸器のたすけによるとはいえ、心拍のある間は霊魂はまだ完全に離脱しておらず「人の死」とはいえない。
わたしたちは、人間の主体である意志と知性の根元は霊魂にあり、脳はそれを受容して精神的体的機能を果たしているとみる霊魂中心の生命観に立つが、その霊魂は人体に普遍的に存在し、脳や心臓のみにあるものではない。動物や植物における生命現象も、そこに包合される霊によって生ずるもので、人間の脳死状態では、霊魂は稀薄ではあるがまだ肉体に残存している。
この度の脳死と臓器移植の問題には、回復しない肉体ならば、他者の救いのために提供してもよい、それが愛であり奉仕であるとの見解がある。これはたいへん分かりやすいため、率直な共感を呼び、多くの共鳴者もでるであろうし、臓器移植の実施により多くの人が恩恵を受けるであろう。
しかし、こうした人々の善意も救済もよく分かるが、この問題の難しさはそれだけでなく、さまざまな分野から実に多様な、しかもきわめて根元的な疑問が数多く提起されているのである。
その中で、わたしたちがとくに問題にするのは次の三点であるが、そのひとつに霊魂上からの問題がある。
これは「反対声明」でも述べたので重複をさけるが、脳死者からの移植は善意によるとはいえ提供者の霊魂がまだ完全に離脱していない状態から、つまり霊魂的には生命が残存する肉体から移植することになるのである。倫理上また死後の霊魂安定上、これに問題がないといえるだろうか。臓器移植は本人の意思にもとづく選択だけに、霊魂上から見れば自ら霊魂の絆を絶つことになる。あえていえば自殺に近い行為といえなくもない。
第二には、宗教上からの問題である。
宗教教義にも様々あるが、もともと人間はすべて創造者の被創造物であって、究極するところ肉体も精神も己のものは何一つ存在しないと見ることができる。つまり、創造者からの借りのものであって、ここに宗教が説く誠とか感謝報恩の根源があり、人は賦与された”固有”の肉体を、己の意志で他者に与えることができるのであろうかとの問いが生じる。
臓器移植は、感謝と光栄に満ちた愛の行為とみる意見もあるが、それは真実だろうか。すべてのモノには天授の使命がある。最後の最後まで、己に与えられた固有の使命を謙虚に保全することが、創造者への誠であり、努めではないだろうか。
人の肉体には顔形や指紋、声紋ばかりでなく、個々の細胞の遺伝子にまで”固有性”が与えられており、臓器が移植された場合にも相互に長く拒絶反応をおこすのは、何を意味するのだろうか。
第三は、人類の未来文明の帰趨に関わる問題である。
現代は環境破壊をはじめ、生命を生命とも思わない事件があいつぎ、物質中心、科学万能、肥大化するエゴへの警鐘がしきりにうち鳴らされ、文明のあり方に見直しが真剣に求められているが、その中で人間を部品の集合体のようにみる人間観やあたたかい肉体を「人の死」とする死生観の普及が、果たして、今後、人々にどのような精神的影響を与えるだろうか。
移植によってしか救われない多くの患者がいること、移植のために他国に出向き日本異質論を増幅させるなど差し迫った問題も大事であるが、さらに大きな問題と思われるのは、脳死を「人の死」とする生命観の広がりで、今後、真に安養な精神的世界が築かれるのかという点である。臓器移植は果たして真に人間相互の共栄の道なのだろうか。
まだあたたかく“生”ある人間を「人の死」とする生命観に立つかぎりわたしたちは科学万能の、より不毛な精神世界がつづくことを憂慮せずにはおれない。
地球は限られた一つの環境であり、限られた資源である。その中で、わたしたちは精神的にも物質的にも豊饒な世界を求めて歩まねばならない。それには、どうしても究極の実在からの霊性で、万有が一体の“生”を保持しているとの優しくおだやかな生命観に立ち、万有を大切に保全し感謝と報恩をよせあいつつ、人類の未来文明を築いていかなくてはならない。
脳死問題はまだ、こうした多くの大きな問題を残していると思われる。