人は自分の生命が存続しているということを、とかく忘れがちなように、宗教を忘れがちです。しかし、実は私たちはいつも神さまからお守りいただいているのです。このことに気づいて本当の神さまを信仰することが宗教の存在意義なのです。真の宗教とは、人生の光明であり、人生の生命であり、人生活動の大原動力であると示されています。
宗教は一切の人事を理想化し、清浄化し、天国化し、個人、一家、一国、世界全体を向上させ、安穏にすることができます。それによって、人々が真に安定した心と生活をもつことができるようになるのです。
現実的になぜ宗教が必要かといえば、神さまを信仰することによって、人は壮健になり、心の苦しみを解消され、一家は発展し、また世界の繁栄につながり、その他あらゆる面で向上がもたらされるからなのです。
↑ このページの最初に戻る宗教に入ると、目には見えませんが、神さまの大きなお力に守られた生活に入ります。したがって、その人は他人や社会のあり方にたえず善意をもって見ていく傾向を持つようになります。それは、宗教に入っていない第三者から見ると、ちょっと世間ばなれした感じを受けたり、激しい社会から逃避しているような錯覚を抱かせるかもしれません。
しかし、もともと宗教は人生活動の活力の源泉となり、生命となるもので、人間社会の一切を理想化し、清浄化し、個人あるいは一家、一国、また全世界を向上させ、穏やかにし、繁栄させる力となるものなのです。宗教に入ることは、決して人生を逃避するものではなく、かえってより積極的に、より発展的にするものです。
↑ このページの最初に戻る病気治しで繁盛している宗教団体やお金を儲けさせることをキャッチフレーズにしている宗教団体など、世の中には人の弱みにつけ込んで多くの信者を集め、ただ単なる商行為をし、人々を惑わしている団体は、意外にたくさんあるようです。しかし、病気治しやお金儲けが宗教に全然無関係なものかというと、そうでもありません。宗教は人々に幸せをもたらす原動力ともいうべきものですから、宗教に入り、喜び勇んだ生活をすることで、結果的に病気が治ることが宗教との出会いであったり、また他人の信用も厚くなって、お金儲けにつながることもあります。
ただしそれは結果としてそうなるのであって、病気治しやお金儲けだけを目的とした宗教は、同じ宗教でも、やはり程度の低い宗教と言えましょう。宗教は、人生に光明を与え、世界平和をめざすという、その本来の使命にしたがって、人々に神さまのみ心にかなった美しい心をもたらし、またその教えによって政治、経済、文化、教育などに、それぞれ本来のあり方を指導し、広くこの地上を天国化することに貢献するものでなくてはなりません。
同じ宗教でも、内容的にかなりの差があることを知り、真の宗教に入るように注意しなくてはなりません。
↑ このページの最初に戻る日本のある大臣が「何か宗教に入っておられますか」と新聞記者に尋ねられたのに対して、「宗教を信じるほどモウロクはしていない」と言ったという笑い話がありますが、この答弁は、宗教の本質から離れていることはなはだしいものです。
宗教は、神とか仏とかの超越的な存在を信じ敬うことを本旨としています。宗教を信ずることは、人間の持つ弱さがそうさせるのだという人がありますが、それは人間の持つ弱さというよりも、人間が生まれながらに持っている自然の性質(宗教心)からなのです。
生命の危機に直面した時など、人はだれでも超越的な存在に頼りたくなります。また、大自然の美しさにふれたときに心が洗われるようなすがすがしい気持ちになることも、一種の宗教心といえます。
宗教は特定の人が持つ人間の弱さから存在するものではなく、すべての人間の本性が求めるために発生したというべきでしょう。
↑ このページの最初に戻る現在、宗教団体に関係のある特殊な私立学校をのぞいて、公立学校では一宗一派の宗教を学生、生徒に教えることは許されていません。これは憲法に定められた 信教の自由 で規定されているからです。学校で一宗一派の宗教を生徒に強いるべきものではありません。
しかし、昭和22年に公布された「教育基本法」第9条(宗教教育)には、「宗教に関する寛容の態度および宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」と規定されています。このように、宗教教育は国民の情操教育の上からも非常に大切なことです。
今日、国公立の学校で宗教教育がとり入れられていないのは、宗教教育が不必要だからではなく、特定宗派の宗教教育をしてはいけないということなのです。ですから国公立以外の学校や、学校教育以外の場で、それぞれの宗派が青少年に正しい宗教教育をし、宗教に基づく美しい情操を育てることは違法でないばかりでなく、この上もなく尊い大切なことなのです。
↑ このページの最初に戻るただ利益を求めるだけの目的で入信されるのはどうかと思いますが、第三者から見ればこういった質問も当然かと思います。どのようなことが「利益」と感じるかは、その人が入信し体験しなければ理解できないものですが、参考まで利益と思われることがらを列記してみましょう。
1、宇宙のすべてを創造された神さまに祈りをささげることができ、またその神さまの手足となって、直接に神さまのご用のために働かせていただくことができます。神さまのご用とは、今の乱れた世の中を良くし、全世界の人々はもちろんのこと、動植物にいたるまで、すべてをお救いになるご活動です。
2、大本の教えは「現界」(目に見える物質の世界)と「霊界」(目に見えない心の世界)、神と人との関係、神と万物(すべてのもの)との関係など、すべての物事にわたって実に広く深く詳しく示されています。すべてに関して大局的な見方や判断ができ、揺らぐことのないしっかりとした精神と、すべてを神さまに任せた絶対的な安心感が得られます。
3、理想世界の姿が明確に示されていて、人は何のために生きるのか、人生の目的がはっきりと理解されます。
4、精神的(霊的)向上の段階が詳しく示されていて、努力次第でより高い段階に向上できます。
5、心身ともに健康になり、家庭は円満におさまり、事業は栄え、社会的な信頼も得て、公共のために進んで奉仕するようになり、「名位寿富」(「名」…名声・評判、「位」…社会的立場、「寿」…長命、「富」…経済的豊かさ)も結果として、自然にいただけるようになります。
6、現界ばかりでなく、死後も「天国」(正しい神々や天人たちが住み、いっさいのものが生きいきと繁栄し、清らかで美しく温かく明るい世界)に入り、永遠に「天人」として、神さまの、「すべてをより良く進歩・発展・向上させようとする」ご活動にお仕えすることができるようになります。
しかし、当然のことですが、そのためには一人ひとりが神さまにお祈りしながら、神さまの教えにしたがった努力をしなければならないことは言うまでもありません。
↑ このページの最初に戻る「神」は私たちの「心」と同じように、物質的なものではありません。人間の目で見ることも、また手で触れるもできません。それだけに、人間が勝手に「神」をつくり出してありがたがり、自らを慰めているに過ぎないと思われるのかもしれません。しかし、「心」、「生命」と呼ばれているものも、見ることや触れることはできませんが、「ある」と感じることはできます。例えば人間の「愛情」「智性」「意志」(「〜したい」という 気持ち )などの働きは見ることはできませんが、その存在はだれも否定することができないでしょう。
このように物質的なものでない存在を、広い意味で「霊」、「霊的なもの」と呼び、これは宇宙に存在するすべてのものの中に宿っています。そして、宇宙一切(宇宙の天体をはじめ、地球上の山、海、川、人、動植物、鉱物などすべてのもの)に宿っている目に見えない「霊的なもの」の働き(活動力)の本源(すべての元)を「神」と呼んでいます。
同時に、宇宙一切のものはその活動力のあらわれであって、「神の断片」であるともいいます。「意志」や「智性」などの働きは、人間が生まれながらに持っているもので、決して人間自身がつくり出したものではありません。それと同じように、大宇宙の活動力の本源も、決して人間自身が造り出したものでもなければ、それによって自らを慰めているといった小さな存在でもありません。
↑ このページの最初に戻る神さまが存在するなら、一度で納得いくように教えてほしいとか、神さまが全知全能の方なら、いっぺん頭をたたくなり耳を引っ張るなりして教えてほしいと、気短にせき立てる人がいます。一応もっともなことですが、それはその人に神さまを感じとることができないだけです。
神さまは目に見えないご存在ですから、直接のお姿を見ることはできません。しかし、心をしずめて周囲を見渡せば、神さまのご存在に満ちあふれています。たとえば、雲の動きにも花の美しさにも神さまのみ心があらわれています。この大宇宙にあるものすべてが神さまのお姿であり、神さまのお働きそのものなのです。
しかし、残念なことに、私たちは神さまのふところの中で、神さまの中に生かさせていただいていながら、神さまを感じている人はわずかしかいません。暗いところでは人や物の姿は見えませんが、明るい電灯の下にくればよく見えるように、神さまの光はいつもサンサンと輝いています。その明るい光を見ずに、別の方角ばかりを見て「神さまはどこにいるの?」と言っている人が大半なのではないでしょうか。
私たちは神さまのご存在を感じとることができるよう、心を澄まし清め、自分自身を高めることに努めなければなりません。具体的には、神さまの雰囲気に包まれている綾部や亀岡の聖地を訪ねるとか、神さまの直接のお言葉が書かれている大本のご神書を読ませていただくとか、ご神前に座り何度も祝詞をあげさせていただくことです。神さまへ神さまへと心を向けさせていただくことで、神さまがおられることを実感できる体験をだれでも持つことができます。
↑ このページの最初に戻る神さまといえば氏神さまや神棚、仏壇、神社、教会あるいは神主さんを連想される人が多いようです。しかし、大本でいう神さまとはそのような狭い意味のものではなく、大宇宙をおつくりになり、全人類を育て導いておられるご存在です。
心をとめて見れば、庭に咲いている一本の花からも、神さまは理解できるものです。この美しい色や香りをもった花は、いったいだれが造ったのでしょうか。同じ土地にまいても、種が違えば、さまざまな色の花が咲きます。だれがそうするのでしょうか。花を作る人はただその世話をするだけにすぎません。
人はよく「自然にそうなる」と言いますが、その自然とは何をさす言葉でしょうか。いずれにしても、自然の偉大な存在を信じないわけにはいきません。私たちはこの自然のもつ力と働きの本源を、宗教的に神さまと呼んでいるのです。
↑ このページの最初に戻る大本では大宇宙の創造主神(そうぞうすしん)をはじめ種々の正しき神々をおまつりしています。大宇宙の創造主神とは、永遠に変わることなく、絶対の存在として実在する真の神のことで、古事記ではこの神のことを、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)というご神名で呼ばれています。大本では大本皇大神(おおもとすめおおみかみ)、また大天主太神(おおもとすめおおみかみ)と申し上げています。また世界の各宗教ではこの主神のことを、ゴッド、エホバ、アラー、天、天帝などという名称で呼んでいます。
なお、大本では主神とともに主神の手足となって活動している多くの天使(かみがみ)を神さまとしてあわせておまつりし、各家の祖先の霊魂も丁重におまつりしています。
↑ このページの最初に戻る神さまは霊的な存在ですから、目で見ることはできませんが、そのご存在を感じることはできます。例えば、私たちの日常生活の中でも、少し平静な気持ちでいれば、言葉をかわさなくても、何となしに側の人の気持ちは感じとれます。同じように、神さまを真剣に求めれば、必ず神さまの存在は感じることができます。
神さまは絶対の存在ですから、これを相対的な人間の知恵で分析・解剖しても、理論や研究からでは、どうしても観念的な思考の範囲にとどまり、信じきることはできません。人が全身をかたむけて真剣に神さまを感じようとする時、その人の本心が超理論的に神と結びつけられる。この時に、人は神さまを感じることができるのです。
神さまは機械や冷たい理法ではなく、温かく生き生きとした深い愛に満ちたご存在です。人が「神さま!」と真剣に念じ続ける時、はじめて神さまを感ずる動機をハッキリとお与えになります。神さまの存在が深く信じられるようになるには、神さまに対する祈りとその体験を積み重ねるよりほかにはありません。
ただ、どれだけ信仰が深く進んでも、神さまの偉大さが明瞭に感じられてくるだけで、決して偉大な神さまそのものの内容は理解されるものではありません。
↑ このページの最初に戻る神さまを求める心がなければ、祈ろうという心はおこりません。神さまを求める気持ちが強ければ強いほど、祈る心も強くなってきます。また神さまを求める気持ちがごく薄い時には、祈ろうとする気持ちも、それにしたがって非常に弱くなります。
こうした時、祈ろうという気持ちが強くなるまで待っているのではなく、人間的理知を超えた神さまの教えに親しみながら、はじめは習慣的にでも結構ですから、神前で礼拝することです。礼拝は信仰の一番の基本であり、神さまに通ずる道です。たとえ形式的にでもそれなりに礼拝をしておれば、次第に心中で神さまとふれあい、自然に神さまを求める心が強くなり、祈りも次第に真剣になってくるものです。
祈ることを恥ずかしく思う人もありますが、祈りは決して神さまに対しての要求ばかりではありません。神さまに心を向けることによって、無限愛の神さまの心をあなたの心で感じ、神さまの心と調和して、無限に向上することができます。まず、積極的に祈ることからはじめましょう。
↑ このページの最初に戻る神さまにご祈願する内容として、一般的には、取引で利益が得られるようになど、身勝手な祈りや自分がよくなるようにという要求をしたり、神さまに泣きつくようなことが多いようです。しかし、これらは正しい祈りのあり方とはいえません。
祈りは、自分のことでも他人のことでも、「すべて神さまのみ心のままに、よりよくお導きください、お守りください」と、絶対の神にすべてをおまかせして、ひたすらその守護を願うものです。そして、よりよくなるために自分自身が努力し、実行していくことが大切です。真剣に努力することによって神さまのご加護をいただけるのです。
自分のことについて真剣に祈ることも結構ですが、自分のことばかりにとらわれて、世界の平和や人類の幸福について祈ることを忘れるようではいけません。神さまのみ心のままに、この地上のすべての人々に、安らぎと幸福を、そして世界に平和をお与え下さいますようにと真剣に祈念し、日々の生活の中に、その祈りの内容を実践するように努めましょう。
大本の開祖さまは、厳寒の夜でも、老いの身もいとわれず一夜に何十回も水行をつづけられ、世界の人々にかわってその罪けがれや無礼をおわびされ、世界の大難を小難に、小難を無難にと祈りつづけられました。私たちも広い気持ちで、世界の平和、人類の幸福をお祈りさせていただきましょう。
↑ このページの最初に戻るこの世の中には、正しいことやよいことはたくさんありますが、この世をお造りになった神に対して謙虚な気持ちで従わせていただくことほど正しいことはありません。
時計の歯車は、その時計全体の中で他の部分と調和し、全体の目的を達成するように動くことこそが正しい歯車の回転であって、一枚の歯車だけがどんなに一生懸命速く回っても、それは全体のために役立っているとはいえません。人間も同じことで、各自が正しいと信じて行っていても、それが本当に正しいことであるかどうかは、人間心ではなかなか分からないものです。
信仰の世界では、そこに神さまから示された教えがあり、大局からみた人間の進むべき道が明示されています。それにもとづいて進むと、安心して無駄なく正しい道を、着実に進むことができます。
正しいことをしているようでも、神さまのみ心にかなった行いをするのは難しいことです。神さまの道にかなった心や行いにならせていただくには、まず素直な気持ちになって、謙虚に人としての真心をつくすことです。そうすれば自然な形で神への祈りができるようになり、信仰への願いが生まれてくるのです。
真に正しいことをしていこうと願われる人は、信仰の道にすすまれ、永遠に変わることのないまことの善をふみ行われるべきだと思います。
↑ このページの最初に戻る信仰するにあたって宗教を選ぶ場合、一番大切なことは、その宗教が、自分の魂に強く共感するものかどうかです。しかし、宗教の中には、低い迷信に属する宗教や、動物霊などの低級霊をまつっている宗教もあります。宗教の内容については、十分注意しなければなりません。
宗教を選ぶにあたって、主に次の3点について内容を検討されることをおすすめします。
1、宇宙の創造主神をまつっているものであること。
2、権威ある幅広い教義をもち、私たちの無限向上への願いをはたしてくれるものであること。
3、立派な先達者(教祖、教主、布教使)があること。
これ以外にも大切な要素はあると思いますが、大本は以上の3点について、他宗教と比べて、きわめてすぐれたものをもっています。加えて、現実に神の守護はきわめて厚く、ご神徳にみちています。また、大本は全世界の救済のために出現した団体ですから、大本を信仰すれば、神の真の手足となって大神業に参加することができます。
↑ このページの最初に戻る信仰に入ると、良いことばかりが起こるように思われがちですが、必ずしもそうではありません。病気になることもあれば不幸な災難に遭うこともしばしばあります。
私たちの日常生活の中には、行いに無理があったり誤りがあったり、また人間同士の憎しみ、争いなどがからみあっていることが多々あります。これらのことは、人間同士が、また自分自身が不幸の種をつくっていると言えるのではないでしょうか。
このことは人間の問題です。神さまは愛そのもの、善そのもののご存在です。どんな人をも決して憎んだり罰したりはなさいません。神さまは人間が自ら作り出した悪い結果を、できるだけ小さい形におきかえて下さっているのです。不幸が起こるのは、決して神さまのせいでも信仰のせいでもありません。
心と行いを正した生活を送ってさえいれば、そうした不幸は少なくなります。私たちが信仰心を持つことによって、たとえ不幸が起ったとしても、「もっと大きな不幸に遭うところを、神さまのおかげで大難を小難にして下さったのだ」と考えられるようになり、逆に感謝の気持ちにならせていただくことができます。そして、現世に生まれた目的を自覚することで、不幸にくじけず、明るい積極的な日々を送ることができるようになっていきます。
↑ このページの最初に戻る物事が起こるのには、必ず何らかの原因があるものです。その原因のことを因縁といいます。
今日の世界では、良いことをしていても報われなかったり、悪事をはたらいてもそれを隠し通すことができて罰せられないこともあるように見受けられます。しかし、神さまはいかなる場合でもお見通しです。仮に法的に罰せられなかったとしても、悪いことをした報いは何らかの形でその人に返ってきますし、良い行いをしていたら必ずその人は神さまから恩恵を受け、幸福になるのです。
神さまは、すべてのものを公平にご覧になっておられます。良い行いをすれば必ず良くなり、悪い行いをすればそれはその人の身に良くない形で返ってくるのです。それは、神さまが罰を与えられているのではなく、その人がしてきた結果としてあらわれてくるだけのことなのです。
↑ このページの最初に戻る病気にはいくつかの原因があります。いくら信仰をさせていただいていたとしても、不規則な生活をしたり、害のあるものを体にとり入れたりしていたら、病気になっても仕方がありません。その場合、自身の生活態度を神さまにおわびするとともに、医師や薬をとおして、神さまのご守護を頂くことが重要です。医師や薬は、現界的に病気を治していくためには不可欠なもので、ただ神さまにお祈りしたり、み手代お取次ぎを受けたりするだけで現界的な治療を行わなければ、良くなるものも良くなりません。しかし、医師や薬をとおしてよりよく神さまのおかげを頂けるよう、真剣に祈ることは大切です。
また、精神的に弱っていることが病気を引き起こすことも多々あります。そのような場合は、よりいっそう神に祈り、信仰に励むことです。そのことによって、魂に力がつき、それまで暗い気持ちでいたのがだんだんと明るい気持ちになって、体の方も徐々に快復していきます。また、精神的な病に苦しんでおられる人は、神さまへのご祈願やお取次ぎを受けるなど、ご守護をお祈りするとともに、専門医に診てもらい、現界的にも正しく治療にあたられることをおすすめします。
↑ このページの最初に戻る人間は肉体があるのですから、病気にもなります。病気になれば、医師や医薬の世話にもならなければなりません。そのためにこの世には、神さまから許されて医師もあり、医学もあるわけです。しかし、病気になったからといって、肉体を医師のもとに運ぶだけではいけません。やはり自分の心を神さまに向けて祈る、神さまにすがることが大切です。
大本の教えには「いたづきの身を天地にいのるともゆめ現世の医師を忘れな」とあり、真剣に神さまに祈るとともに、医師や薬を用いることも大切であるといっています。宗教によっては、神さまにのみ偏って、薬などいっさいを排斥する宗教もあります。また人々の中には、医師や薬だけに頼って、生命の本源である神さまに頼ることを忘れている人もあります。これは、どちらもよくないことです。
↑ このページの最初に戻る信仰生活といえば、普通一般の人々の生活とはかなり違った生活のように受け取られがちですが、そんなに変わった生活ではありません。その日その日を神さまに祈り、神さまのみ心に沿う生活をしていくことです。しかし、言葉では簡単ですが、これは極めて難しいともいえます。
神さまを信じ、祈ることは、信仰の原点です。まずここから始めなければなりません。同時に、ご神書を拝読して、神さまのみ教えに触れさせていただくことも大切です。そのことにより、祝詞やご神書に示されているみ教えの重大さに気づき、生活をみ教えにかなったものへと改めようという気持ちがわいてきます。その気持ちを具体的に実践していくことで、生活そのものが神さまのみ心に沿ったものになり、信仰的に一歩一歩向上していくことができるのです。
信仰には体験が大切です。真剣に祈り行えば、必ず神さまのご守護を頂くことができ、信仰的な体験が得られます。そして、その体験をとおして神さまの慈愛とお力の絶大さを、腹の底から分からせていただくことができるのです。
信仰生活とは、日々神さまに祈り、み教えを学び、それを生活の中に実践していくことです。
↑ このページの最初に戻る前項で、信仰生活とは神さまに祈り、神さまのみ教えを実践する生活のことだとお答えしました。神さまへの感謝と祈り、そしてみ教えの実践は車の両輪のようなものです。その中でももっとも大切なことは、正しい神さまを真剣に祈ることです。
大本のみ教えの中に「祈りにまさる宝なし」と示されています。祈りは信仰生活の根本です。祈りがなければ、神さまの真のご守護もありませんし、真実は生まれてきません。祈れば心に光が差し、物事にたいしてのイメージがあきらかになって、進むべき道が見えてきます。そして前向きに進む意欲がわき、困難に対しても耐えしのび突破する力が生まれ、また反省の心も強くなり、向上への意欲がかきたてられます。
祈りは、一切の活力の根源となるものです。信仰の道に入ったら、とにかく理屈ぬきに朝夕のお祈りをすることが大切です。その中からあなた自身が、祈りの尊さを感じとられることでしょう。
↑ このページの最初に戻る宗教では、よく「悟り」ということをいいます。仏教で使われている言葉が一般化した宗教用語です。
私たちは、日々習慣や金銭、名誉、地位、思想などさまざまなことがらと、かかわりを持ちながら生きています。そして、そのことがらにとらわれながら生活しています。平素はとらわれていないといっていても、いざその人の利害がからんでくると、そのことがらにとらわれ、偏狭になり、どうしても幅広く冷静に真実を見きわめることができなくなります。何かにとらわれていることが、真理を知るさまたげとなり、一種の迷いとなっているのです。
悟りとは、心の迷いが解けて真理を会得することです。
信仰によって意識の働き、持ち方を高め、広めて、物事にとらわれないようにしていく修練を重ねていけば、深い真理にふれることができ、自然に心がおだやかになります。そして目に入るすべてのものが光り輝いて見え、人生をかぎりなく美しく過ごすことができます。
↑ このページの最初に戻る一般的に、「人間は死んでしまえばそれですべてが終わり、何も残らない。だから生きている間に、思う存分好きなことをしなければ損だ」という考えの人が多いようです。これはとんでもない間違いです。
人間の霊魂は、現世から消えても、生前の個性と意識をもったまま、霊界で存続します。死とは、肉体の機能が停止することなのです。
人間の肉体は物質ですから、自然界の法則のとおり、衰え亡び、腐敗してしまうものです。しかし、霊魂は永遠に不滅で、死ぬことも老いることもありません。人の霊魂は肉体をもって生まれる前から存在し、現界で生きている間は肉体を宿としています。そして、現界的に死を迎えると肉体から霊魂が脱出し、霊界へと帰っていくのです。
死んでしまえばすべてが終わりだと思って、好き放題の生活をしていると、霊魂を傷つけ、弱め、汚してしまいます。そしてその霊魂は霊界に帰ってからも永遠に存続するため、その罪を永遠に背負い、苦しまなくてはいけないのです。
↑ このページの最初に戻る大本のみ教えには「人生の真目的は地の上に無窮の天国たつるにありけり」と示されています。つまり人生の目的とは、この世の造り主である神さまのご意志にそって、永遠に続く幸福と繁栄にみちた平和な世界を地上に建設することだと教えられています。
人間は神さまから分けていただいた霊魂をそれぞれの肉体に宿しています。そして神さまと人間とが真に和合してはじめて、人間としての本当の働きができるのです。
もし人が「私は神仏などを必要としないほどの人格者だ」と自負していたとしても、その人が神さまとの結びつきがなく、神さまからのお導き(ご守護)を得ることができなければ、人として神さまからゆだねられている真の仕事はできるものでありません。
造り主である神さまのみ心を心とし、神さまの手足となって理想世界を建設することが、人生の真の目的なのです。
↑ このページの最初に戻る人間をその本質よりみて罪の子とみている宗教もあるようですが、大本ではそのようには教えていません。反対に、大本では、神から創造された人は神の分体と分霊をもつものとしています。
民族や人種の別なく、すべて人類は神の子であり、神の民です。人間は向上して神となることができる半面、この世のいろいろな罪悪に誘惑されて堕落し、次第に神に背き、その身霊が悪神に支配されるという面も持ち合わせています。神さまは自ら堕落してしまった多くの人々をあわれみ、その魂を洗い清め、本来の神の子によみがえらせるために、大本の教えを開かれたのです。
人間の本質の尊さについて、大本では次のように示しています。
天地の神の霊魂(みたま)を分けられし
人の霊魂(みたま)はうるわしきもの
身体(からたま)も霊魂も神のものなれば
仰ぎうやまへ吾とわが身を
↑ このページの最初に戻るどの宗教でも、神(仏)の愛や善を説かない宗教はありません。ですから大本では他の宗教を邪教などと呼ぶことはしません。大本には、万教同根(ばんきょうどうこん)という教えがあります。つまり、すべての宗教は、究極において、全大宇宙を創造された一つの神から派生し、その一つの神を礼拝していることになるという意味で、万教はすべて根を同じくしている、つまり万教同根といっています。
世界には、その宗教の起った時代によって、あるいは風俗習慣、民族などの違いなどから、いろいろな宗教がありますが、たとえ各宗教が、祭神の名前や礼拝の形式などが違っていても、また、その教義に浅い深いの相違はあっても、結局は人類に平和と幸福をもたらすということに共通目的があるのです。
それぞれの宗教は、お互いに排他と独善のあり方をやめ、邪教呼ばわりしないで、宗教共通の目的である人類社会の浄化と向上のために、お互いに提携し協力して活動するようにしなければならないと考えています。
しかし近年、宗教の名を語る「エセ宗教」や、世を騒がせるカルト教団なども横行しています。これらは、万教同根とは対極の邪悪な心が生み出した存在だと考えています。
↑ このページの最初に戻る全世界の人々は、この世をお創りになった大神さまから、霊魂(れいこん)を分け与えられています。人はみな神の子であり、兄弟同胞です。
出口王仁三郎聖師は、「ちはやふる神の霊魂(みたま)を分かたれし人は神の子神の宮かも」と詠んでいます。
もともと人間の霊魂は、神さまと同様に、清らかで美しいものです。
しかし、今日の世界は、利己的な狭い考えが根深くはびこっています。そのため人間は神さまから頂いた美しい霊魂をも曇らし汚し、自分たちの創り主の存在さえ分からないまでになっているのが現状です。大本では、人々が本来の清らかな霊魂に磨き上げられるように働きかけています。
清らかな霊魂とは、真の勇気、知恵、愛情、親和の心を持ち、その心が言葉や行動にも現れていることをいいます。清らかな霊魂にしていくためには、まず自分の中にある神さまから頂いた美しい霊魂に気づくことです。そして、それぞれが日々の職務をとおして霊性(れいせい)を正しく発揮し、一切の事柄に対して積極的に取り組んでいくことが大切です。
↑ このページの最初に戻る神さまは慈愛の本源であり、愛と善そのもののご存在です。どんな罪悪を犯した人でも救済し、一人として見捨てられない絶対の慈愛神です。悪人を悪人として罰したり、善人を善人としてほめるのは人為的なもので、神さまの無限大の愛善とはほど遠いものです。愛したくて愛したくてたまらない、救いたくて救いたくてたまらないのが神さまのみ心です。もし神さまにわずかでも憎悪のお気持ちがあったとしたら、もうそれは神さまではありません。
大本では「神さまが罰を与えられる」とは説いていません。この世の中にいろいろな不幸や災害が出て罰があたるように見えるのは、結局、人間の無智、悪意、因縁のからみ合いの結果であり、神さまがされているのではありません。人間同士の感情のもつれがよくない結果につながったり、自身の地獄的な気持ちが不幸をつくり出しているだけです。
神さまはこうした不幸や災いの原因である人間の無智や悪意の原因をとりのぞき一人でも正しく楽しい生活ができるよう教えを示し、救済につとめておられるのです。
↑ このページの最初に戻る大本の教えには「大本へ来た人には世界一目に見えすく神徳をさずける」と示されているように、出口なお開祖、出口王仁三郎(おにさぶろう)聖師、そのほか歴代の教主・教主補さま方によって、懇切きわまりない教えが豊富に説かれています。大宇宙創造のはじまりから今日にいたる神々の活動、また現代までの宇宙の経過、今日の世界の特徴、未来の理想世界、また太古から今日にいたる救世神のはたらき、神と人との詳細な関係などです。
また、霊界の組織と死後の生活、人生の真目的、人間個々の日々の生き方、また政治、経済、芸術、宗教、教育など各分野にわたって、それらの真のあり方を示されているなど、宇宙の万般の事項について、きわめて詳細に説き示されています。大本の教えによって、はじめて宇宙の秘奥が説き明かされたといっても過言ではありません。
これまでの聖人、哲人が説き明かすことのできなかったこの世の真実のありさまを、深く、しかもわかりやすく説かれたものが大本の教えです。さらに深くは直接教典によってご覧ください。
↑ このページの最初に戻る大本では、今日のように世界の混乱が起きることは、大本が開教した明治25年(1892)から、開祖のお筆先を通し、すでに予言されていました。
お筆先にはこれまでの世の中のあり方は、一切が人間本位の、神を無視した、間違ったやり方なので、神を中心としたあり方に一切を根本的に改め、水晶のような清らかで美しい世界に立直すと示されています。そして、この間違った世の中を大掃除、大洗濯して清めるためには、その間に個人的にも、世界的にも、また精神面にも、物質面にも大きな変動が起ると示され、その時の覚悟も十分に諭されています。
今日、お筆先に示された通りに起こっている世界の混乱や変動には、よいことばかりでなく、悲惨な出来事もたくさんありますが、これら一切は、よりよい世界が建設されていく産みの苦しみです。私たちは世界を大きく改造されつつある神さまに、世の大難を小難に、小難を無難にしていただくようにと祈りながら、神のみ諭しのままに行動しているのです。
↑ このページの最初に戻る封建時代から今日の社会をみると、貧富や身分の上下の差は小さくなったといえますが、まだまだ差別があります。大本では理想世界のあり方として、貧富の差の縮まった世界を理想としています。しかし、全く違いのない世界を築こうとしているのではありません。
自然の草木の一つ一つにいたるまで、その成長に不同があり、差が自然にできているように、人間の世界にも生まれながらに生じる賢愚(けんぐ)、美醜(びしゅう)の本質的な差はどうすることもできません。また、なまけている人と、勤勉で立派な人とが全く違いなく同一に扱われることは、大本ではそれを「悪平等」といって戒めています。
もともと私たちの世界は、本来、大小、善悪、深浅等、違いがあるように創られている世界ですので、違いのあるのが本当ですが、その違いが自然発生的なものでなく、不自然に人為的に造りあげられたものである場合は、これをよくないこととしています。私たちの社会で、みんなが人権を尊重し合い、それぞれにもつ能力に応じて業務の役割もきまり、おたがいに不平なく楽しみ喜べる社会にすることが、私たちの理想なのです。
↑ このページの最初に戻る大本では、物質本位、唯物的な立場からつくりあげた共産主義や社会主義、資本主義は行き詰まると考えています。その先は、神さまを第一義的に考える神さま第一主義とでもいった世界が到来すると考えています。
神さま第一主義というのは、人類一人一人が神さまから与えられた人間性を高め、それを完全に発揮し、真に喜び楽しみ神に感謝するとき自から生まれる世界のことで、人為的な主義主張のワクにはめてつくりあげようとする世界のことではありません。
神さまから人間一人一人に授けられた人間性を、それぞれ個性のままで美しく清く発揮した時、自然につくりあげられている世界こそ、神さまの意志にそった世界であるとしています。私たちは、主義主張を超えた個々の人間性の発揮を願ってさまざまな活動をしているのです。
↑ このページの最初に戻る大本では、戦争や紛争の原因を、人の心の持ち方にあると考えています。自分の国さえよければ、よその国はどうなってもかまわないといった「われよし」の心の持ち方が、これらを引き起こす原因になっているとしています。
聖師は次のように示しています。
「神さまの生宮たるわれわれは、世界にある有形無形、この二つの大なる障壁を取り除かねばなりません。有形的障害の最大なるものは対外的戦備(警察的武備は別)と国家的領土の閉鎖とであります。また無形の障壁の最大なるものとは、すなわち国民および人種間の敵愾心(てきがいしん)であり、また宗教団との間の敵愾心だと思います」(霊界物語第64巻上)
このお示しのように、軍備を撤廃し、人々の敵愾心を無くさない限り、戦争の原因はなくならないと言えるでしょう。
↑ このページの最初に戻る大本では、戦争は人類最大の罪悪であるとみています。大本の教典には、「神より見れば一人の生命も大地より重しとなしたもう。その重きところの生命をとり合う戦いこそ悪の骨頂である」「世の中に戦争くらい悪しきものはなく、軍備くらいつまらぬものはなし」と示されています。
昭和20年の12月、聖師が鳥取県の吉岡温泉に滞在中に、朝日新聞の記者からインタビューを受けられた記事が三十日付けの紙面に掲載されました。これを「吉岡発言」といい、当時戦後日本の復興進路を示す重要な内容として注目されました。その要旨は、次のとおりです。
「……日本民族は断じて滅びない。今日本は、軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある」
この主張をもとに、大本は戦後一貫して軍備撤廃、戦争反対、世界平和を訴えつづけてきました。そして戦争の起こらないよう、人類の「われよし」のこころを人類愛善、すなわち同胞愛の心におきかえるようにひたすら呼びかけ努力しています。
↑ このページの最初に戻る大本の教祖である出口なお開祖と出口王仁三郎聖師は、ともに偉大な予言者でした。開祖のしるされた「お筆先」、聖師の口述された「霊界物語」は、ともに膨大な量にのぼる大本の教典ですが、同時にそれは大予言書、大確言書ともいえるものです。
予言内容は、「立替え立直し」といわれる、この混迷の世を人々の心を改めることによって、新しい世の中に建設しなおすことを基本に、明治時代から今日にいたる世界の変遷、また現代からさらに来るべき理想世界の建設にいたる過程が、はっきりと示されています。
こうした予言は、お筆先に「神の申したことは毛筋の横幅(よこはば)ほども間違いはないぞよ。これが違うたら神はこの世におらんぞよ」とあるように、絶対の権威をもって示されています。事実、少しの違いもなく現実に現われており、予言ではなく、確言であるということができます。予言の内容について詳しくは、聖師がお筆先を整理・編集された「大本神諭」をご覧下さい。
↑ このページの最初に戻る大本で理想としていることは、神さまのご理想とされているところと全く同一の事柄です。これを一言で表現すれば、「一切のものを平和でのどかな天国のような状態にする」ことです。つまり、この現実世界の人や社会に属する一切のものを天国化すると同時に、私たちの目に見えない心などの霊界に属する事柄にも、地獄界などという汚い世界を一切なくし浄化し天国化するということです。
大宇宙の精神界、物質界をあげて一切を天国化し、神さまの無限の真善美愛と合致させることが神さまのご理想です。このことはそのまま、神さまに奉仕しようとする宗教団体「大本」の大理想でもあるのです。
↑ このページの最初に戻る大本では、端的に「一つの神、一つの世界、一つの言葉(国際共通語)」の具現化を、理想世界の現実的姿としています。
一つの神とは、宗教・宗派によってとなえる神仏の名が異なっても、いずれも宇宙を創造された元の神さまから派生した神さまであり至高者である、すなわちすべての宗教は同じ元の神さまに帰一することです。
一つの世界とは、世界各国が大家族的となって、世界連邦のような機構を実現することです。
また一つの国際共通語とは、民族語はそのまま残し、公用語としてどの民族にも属さない中立な国際共通語エスペラントを用いて、世界の何千という各民族語のもつ国際交流上の言語障害をなくし、公平な立場で人類の意思交換を円滑にすることを端的に示したものです。
このような世界を理想としていますが、加えて世界中の気候が整って災害が減り、病も少なくなり、政治、経済、科学の各分野でますます平和裏に国際交流が進められるよう願っています。
一方、教育、芸術、宗教の分野でも、国際的に人類の宗教的情操を高め、魂の浄化をはかるための文化活動がすすめられることを理想としています。それによって、人類はともに天然の資源を尊び、感謝の気持ちを持って公共の福祉をいっそう増進するようになり、個々には、それぞれに持てる個性を生かしながら、各自の業務を喜び楽しみ、人類が相互に共存共栄し神を讃美する世界が現出されていきます。そのような世界を理想の世界としています。
↑ このページの最初に戻る大本は、人為的な力のみで理想世界を建設しようとしているのではありません。大本の神示には「三千年の神の仕組み」という言葉があります。三千年とは非常に永い年月のことです。太古から神さまは現代の混乱を予知され、現代を救済するために水ももらさない深い仕組みを立てられ、その通りにこの世の中は動いてきています。
明治25年(1892)に現代を救済するために開祖に神がかられ、聖師、二代教主、三代教主・教主補、四代教主、そして現教主を通じて救世のみ教えを説き、仕組みを遂行されてきています。
まず大本の中に精神界、物質界の両面にわたる世界大改造の源泉を築かれ、それを世界に波及され、人類に幸福と繁栄の道を開き、救済しようとされています。私たちは、こうした教祖、歴代教主・教主補の指導のもと、大本を型として神さまの理想を世界に伝え、永遠につづく理想世界を建設しようと努めています。
この理想世界実現のためには、世界の構成単位である人間一人ひとりの魂の浄化が不可欠であり、それなくして人間社会がよくなり幸せになるはずがありません。大本では、人類個々の改革と向上をはかるため、神さまに祈りをささげ、神さまのご守護のもと活動を行っています。
同時に、「教育や政治芸術一切を指導するこそまことの教なる」というお示しのもと、政治、経済、教育などを精神的に指導しつつ、多方面にわたる教えを現実的に具体化し、日本および世界各国に積極的に広めています。そのことが、世界の万般に大きな影響を与え、人類の向上を促し、神さまの意志のもとに理想世界を建設していく大推進力となり、その中心となろうとしています。
↑ このページの最初に戻る昔からともすれば、学問と信仰とは対決するもののように考えられてきましたが、そうではありません。学問の進歩は、神をより理解させるものですから、大いに学問はすべきであり、発達すべきです。しかし、学問ですべてのことが解決するように考えることはとんでもない思いあがりです。大本では、学問をする人のこうした思いあがりが、今日のように世界を混乱に陥れた原因の一つであるとして、強く戒めています。
この果てしない大宇宙を創造された神さまの念慮やその意志は、人間の浅い理智や学問の範囲をはるかに超えたものです。人間は、ただ神さまの意志のほんの一部を、自然界の事物を通してわずかにうかがい知ることができる程度にすぎません。
このように、学問は神さまのごく一部分を説くものにすぎません。また人間の知恵は、書物の中だけから得られるものではなく、自然の姿や日常の体験を通して吸収され、深まっていくものです。
人間は、一生のあいだ、謙虚な心で学問に励み、深く広い思慮を養い、神さまの心を深くくみとり、人類の幸福と発展のために貢献しなければなりません。
↑ このページの最初に戻る大本にはご神書(教典・教説書・教書など)が非常にたくさんあります。たとえば、聖師さまの「霊界物語」にしても81巻(83冊)もあります。
ご神書を読むには普通の新聞や雑誌を読むのと同じようにはいきません。一言一句に非常に深い心の糧となる内面的な意義が含まれているため、新聞などよりは、はるかに難解なのが普通です。
大本のご神書を、みなさんに理解されやすい順にご紹介すれば、まず、出口日出麿(ひでまる)尊師の書かれた「信仰雑話」を読まれ、続いて「信仰叢話」、そして出口王仁三郎聖師のしるされた「道の栞」「道の光」「大本の道」を拝読されるとよいでしょう。つづいて「大本神諭」「霊界物語」へとお進みください。
また随想的なものとして、「信仰覚書」(全8巻)、「私の手帖」「聴雪記」「寸葉集」(全2巻)などもおすすめします。とくに大本の歴史について詳しく調べたい方は、資料本の「大本七十年史」(上下2巻)をご覧下さい。
大本が開教したのは明治25年(1892)旧暦正月です。大本の開祖・出口なおという方が五十七歳の時、京都府の北部にある今の綾部市で、突然神懸かり状態になられ、神の言葉を叫ばれるようになりました。これが大本の誕生です。
大本の祭神は古事記、日本書紀にもお名前がたびたび出ている、宇宙を創造され太古から今日まで活躍されている神さまです。そういう意味では、開教は浅くても、大本は大昔から存在し活躍していた宗教といえます。
その宇宙を創造された神さまは、現在の世界を混乱と腐敗から救い、永遠に変わらない美しい国土を地上に建設するため、明治25年(1892)に現界に出現され、本格的に救済の手をさしのべられたわけです。
さて、開祖が生まれられた天保7年(1836)から大本が開教した明治25年という時期は、ちょうど日本の大変革期でした。徳川幕府の政治も腐敗し、日本全土におよぶ飢饉や、農民による大規模な一揆、また倒幕運動が各地で起こるなど騒然とした時代で、ついに徳川幕府は倒れ、明治維新を迎えました。その後も西南の役など、新時代と旧時代の争いが絶えず、まだ新しい国家体制の十分にととのわない明治中期に、大本は出現したのです。
ちょうどそのころ海外では、アメリカで南北戦争が、ロシアでは農奴解放が行われるなど、解放運動が進むとともに、一方では資本主義が急速にのびてくる時代で、ようやく世界史的にも大転換が行われようとしている時代でした。
↑ このページの最初に戻る一般的に、キリスト教や仏教、イスラム教などの世界宗教から、天理教、金光教などの各宗派にいたるまで、教祖はお1人ですが、大本の教祖は2人です。出口なお開祖と出口王仁三郎(おにさぶろう)聖師のお二方がそうです。これは、大本の特徴の一つといえましょう。
開祖は「お筆先」を、聖師は「霊界物語」をそれぞれお示しになりました。開祖は神の法則を端的に述べられました。聖師はその法則を現代人に解り易く説かれ、政治、経済、教育、宗教、芸術などの諸分野において詳しくくだいて教示されています。このお二方の教えから大本の教えの基本は成り立っています。私たちは開祖、聖師お二方を大本教団の教祖という狭い視野からうけとるのではなく、全人類の教えの祖としてうけとっています。
↑ このページの最初に戻る出口なおという方は、大本を開かれた方で 開祖とお呼びしています。天保7年(1836)に現在の京都府福知山市にお生まれになりましたが、きわめて貧しい家庭で育たれ、読み書きも習えず、奉公暮らしのうちに大きくなられました。しかし、開祖さまはつつましく清らかに生きられ、大変親に孝養を尽くされましたので、当時の藩主より表彰されたことがあります。
さらに成人され、ご結婚後は家の要として夫によく仕え、八人の子育てをなさる中、艱難苦労の生活を続けられた開祖さまは、人の世の苦しみや悩みを味わいつくされ、さらには貧しいものや、虐(しいた)げを受ける弱い人に、しみじみと思いやりをよせられていました。
開祖が57歳になられた明治25年(1892)旧正月のこと、突然神がかり状態になられ、ご自分で気持ちを抑えようとしても抑えきれない力で「元の神世に立替え立直すぞよ」と叫びだされました。続いて、人の生き方や、神々や人類に対する警告、また世界改造の予言などが、開祖の口をついて出てきました。これが大本のはじまりです。
開祖の腹の底から湧きあがってくる神さまの声は、やがて開祖の筆を通して現われるようになりました。これをお筆先といいます。寒中でも日にいく度となく水を浴びられ、心身を清めて筆をとられ、お筆先を書きつづけられました。これが大正7年(1918)に83歳でご昇天になるまでの27年間に、半紙で20万枚にのぼる大本のお筆先となりました。このお筆先は、後に「大本神諭」として発表され、「霊界物語」(出口王仁三郎著)とならんで、大本の二大教典となっています。
開祖の、厳冬に咲く白梅のような厳しく薫り高い静かなご生活は、気品高い一種言うに言われぬ気風をかもし、信徒を広く教化していかれました。
↑ このページの最初に戻る出口王仁三郎という方は、大本の開祖である出口なおという方とともに、大本の教祖と仰がれている方で、私たちは「聖師さま」とお呼びして、親しみ敬っています。
聖師は幼名を上田喜三郎(きさぶろう)といい、明治4年(1871)、現在の京都府亀岡市近郊の貧しい農家の長男として出生されました。明治31年(1898)28歳のとき、突然、神に導かれるままに郷里の高熊山の岩窟で7日間、水一滴も飲まれず、寒中に岩上に正座して修業されました。この修業中、聖師の霊魂は肉体をはなれ、この現実界の根源である霊界の実相(じっそう)を深くさぐられ、自分に救世の使命のあることを強く自覚されました。
明治33年(1900)には、開祖の末子すみこさま(後の二代教主)と結婚され、その後大本の基礎を次第に築いていかれました。「霊界物語」81巻の口述、国際語エスペラントの採用、海外の諸宗教との提携、芸術活動の推進など、今日の大本活動の基礎はほとんど聖師が確立されたといっても過言ではありません。しかし、この間に、昭和10年(1935)には第2次大本事件で6年8カ月も未決の牢獄ですごされるなど、救世のために筆舌に尽くせないご苦労をなさいました。昭和23年(1948)に78歳の波瀾にみちた偉大な生涯を閉じられました。
聖師の知識はあらゆる事柄に関して即座に解答し、あらゆる賢哲(けんてつ)の疑問にも明解を与えられ、救世の教えとして世界的な大教義をのべ伝えられました。またその言行は愛に徹し、さまざまな迫害と苦痛を平然と甘受され、どんな反抗者に対しても歓喜をもって教化する大神人でした。
↑ このページの最初に戻る大本の現在の教主は、出口紅(くれない)と申し上げ、開祖より五代目にあたられます。
教主は昭和31年(1956)、京都府亀岡市でお生まれになり、幼いころから、祖母出口直日三代教主のお側に仕え、また出口聖子四代教主からも、ねんごろなご薫陶(くんとう)をお受けになりました。
物心おつきのころより、能楽・茶道など日本伝統文化に精進され、長じては薬学、特に東洋医学の研究に情熱を注がれました。
教主は、ご就任後、教祖さま、歴代教主さま方のお残しになられましたお道を、自ら率先して実践され、人類愛善、万教同根の理念に基づく平和活動、生命尊厳を重んじる社会的諸活動、お土のご恩に生きる食、農、環境の改善をめざす愛善みずほ会活動、世界共通語エスペラントの実用化への実践的努力、芸術、文化、福祉活動など、時代に即応する宗教教団の実現をめざして、指導しておられます。
↑ このページの最初に戻る大本は、戦前に2回にわたって政府から弾圧をうけました。大正10年(1921)と昭和10年(1935)の弾圧がそれです。
なかでも昭和10年の第二次大本事件では、徹底的な弾圧をうけました。
昭和8、9年、つまり世界情勢がファッショ化してきた時、大本は愛善精神にもとづき、まず日本国家の精神的改革を断行しようとして、昭和9年(1934)には昭和神聖会という会を設立し、全国でこの運動を展開しました。たちまちこの運動は全国に数百万の賛同者を得ましたが、時の政府はこの運動を誤解し、また末端部における運動の行き過ぎや、運動に対する信徒の誤解もあり、徹底的な弾圧をうけてしまいました。事件は治安維持法違反、不敬罪などの疑いによるものでした。
この事件では、中心人物であった聖師、二代教主や三代教主補、その他五十余名の幹部が投獄され、当局は判決も決まらない前に、開祖のお墓を破壊し、綾部、亀岡両本部をはじめ、全国数百カ所の大本の施設を強制的に破壊し尽くしました。
新聞雑誌は「大本は邪教である」と、事実をまげて報道しましたが、治安維持法は昭和17年、高等裁判所で無罪、昭和20年(1945)、大審院で控訴棄却となり、無罪が確定。不敬罪も昭和20年の日本の敗戦により解消して、一切が無罪となりました。
↑ このページの最初に戻る大本の紋は 十曜の紋 といい、10個の丸がつぎのように配されています。大きい1つの丸を中心に、その周囲に小さい丸を9つ配したものです。10の丸は、宇宙の成立過程を形どったもので、十方に広がることを意味し、全大宇宙をあらわしています。仏教でも全大宇宙のことを十方世界と別称しているように、十は「十分」「完全」という意味があり、「神仏」をあらわす数にたとえられています。
したがって大本では、十曜の紋は「遠い過去から永遠に続く神のお働きが全大宇宙に充ちあふれている」という神さまの広大きわまりない活き活きしたお働きを表象したものです。
なお、大本では裏紋として丸に十の字の紋を使用していますが、これも同様の意味です。神さまを讃美する大本の和歌に「世を救ふ弥勒の神の標章は○に十字の神定めなる」と示されていて、神さまのご意志とお働きを十字であらわし大宇宙を○であらわして、十曜の神紋のもつ意味をさらに簡単に表象したものです。
↑ このページの最初に戻る天地創造の神さまが開祖に神懸かりされた時のお言葉によって開教した教団ですので、「世の大本」「宇宙一切の大本」「道の大本」などすべての本(元・基)の意味をあらわす名称を用いております。また、単なる一宗教団体の枠を超えた、幅広い活動を目指しておりますので、「教」をつけずに「大本」と称しています。
↑ このページの最初に戻る大本の聖地は、京都府の綾部市と亀岡市の両市にあります。どちらも神さまの鎮まっておられる神聖な場所です。
綾部市は京都駅からJR山陰線の特急で1時間あまりのところにあり、ここにある聖地を梅松苑(ばいしょうえん)とよびます。大本が開教したところで、まつりの中心地となっています。大本の大祭や、ご神体のおさげや、祖先のおまつりなど、まつりに関することは一切ここで行われます。
また、京都駅から山陰線で30分ほどの亀岡市にある聖地を、天恩郷(てんおんきょう)とよびます。大本のみ教えを広める宣教活動の中心地です。人々にみ教えを伝える大道場や、出版物の発行所、対外活動の事務所などがあります。
梅松苑も天恩郷も、ともに青々とした樹木につつまれたすがすがしい神域で、信徒はこの両地をともに聖地とよび、神さまの永遠に鎮まられる至聖所として、また「魂のふるさと」として、慕い尊んでいます。
↑ このページの最初に戻る信徒として本部に登録されている数は、公称約18万人余りです。その分布状況は、北は北海道から南は鹿児島、沖縄まで広がっていますが、やはり本部に近い近畿地区が他の地域にくらべていくらか多いようです。
また海外では、北米、南米(ブラジル、パラグアイ)、中南米、東南アジア(フィリピン)、ミクロネシア(ポンペイ)、アメリカ、ヨーロッパ、メキシコなどの諸国に多くの信徒や賛同者がいます。特にブラジルには大本南米本部があります。
↑ このページの最初に戻る神さまの存在に気づかれ、大本の教えにもとづいて生活をしようという気持になられましたら、一日でも早く入信届を出されることをおすすめします。入信届を出すということは、神さまの世界に入籍されることで、ちょうど市民になるために市役所に戸籍届を出されるようなものです。
入信届を出されることにより、信仰者としての、生活の第一歩を踏み出されるわけです。入信手続きは、大本では簡単な手続きですむようになっています。教主宛に、所属されようとする分所・支部の長を通して、または直接亀岡の本部へ、規定の「入信お届」と「入信報告書」用紙に住所、氏名、生年月日等を記入、捺印され、神さまに入信のお礼の意味でお玉串料(個人入信の場合2千円以上、全世帯入信の場合5千円以上)をお供えしていただきます。
以上の入信届用紙とお玉串とが本部の大神さまに供えられ、本部の信徒台帳に記帳されて、はじめてあなたは入信されたことになります。入信届用紙は大本の地方組織や、信徒宅にもありますので、ご連絡ください。
↑ このページの最初に戻る神さまの道に入られたのですから、早く神さまと直結した生活をなさることです。入信後は、まず何よりも本部から神さまの「ご神体」または「ご神号」をお受けになり、おまつりされ、毎日礼拝されることです。大神さまをおまつりされたら、さらにあなたの先祖の霊魂を大本式にまつることです。先祖の霊魂は高い教えの宗教にまつりかえられると、いっそう霊魂が向上されるので、お喜びになります。こうして神さまに日々のご恩を感謝し、祈りをささげ、教えの実践に励み、先祖の霊魂に対しては霊界でのいっそうの幸福をお祈りします。
さらに、ご神書(教典)を拝読され、神さまのみ心を悟り、日々の生活の中にみ教えをとり入れ、工夫と精進を積み重ね、真の信仰生活に入るよう努められることです。そうして永遠の生命の喜びを知り、争いのない和合の世界の尊さを感じられたら、積極的な奉仕活動に励まれることをおすすめします。大本では教団方針に基づき、さまざまな対外活動を行っていますが、そうした奉仕活動を通して、信仰の喜びを多くの人々に伝え、信仰の友をつぎつぎにふやしていくことです。
同時にご神業を推進させていただくために、真心のこもった浄財を献金のご用にもお仕えしていただきます。主な献金は月例の更生奉仕金です。
更生奉仕金納入世帯には、本部から月刊機関誌「愛善苑」が無料で送られます。このほかにも、月刊誌「おほもと」や青年向けの月刊誌「まつごころ」が発行されていますので、購読をおすすめします。
↑ このページの最初に戻る大本の宣伝使になるには、一定の資格条件が定められています。しかし、一番大切なことは、「誠の神の取次ぎは知識や学ではできぬ、信仰と行いのできる人ならどんな力も神が蔭から添えさせる」と示されているように、言心行の一致が大切です。神さまのみ教えを片時も忘れることなく宣べ伝え、救いの道を広める人であることが求められます。
また宣伝使の大部分は、各自の職業に従事しながら神さまの道をお伝えしており、専業の宣伝使はごくわずかしかおりません。宣伝使になるには、地方の組織長から推薦された人を本部の銓衡(せんこう)委員会で銓衡し、教主からご任命を受けてはじめて宣伝使となれるのです。
宣伝使になりましたら、大本教義はもちろんのこと、祭式(お祭りの作法)などにも通じ、神さまのみ心と権威を人々に取り次ぐことのできる人とならせていただかなくてはなりません。
なお、一般信徒が宣伝使を拝命する前の段階として「教使」(きょうし)の制度があり、一定の資格条件が定められています。入信なさった方は、まず「教使」を目標に研鑚(けんさん)を積まれることをおすすめします。
↑ このページの最初に戻る大本は、綾部・亀岡の両聖地と東京にそれぞれ本部を置いています。
本部組織は、教主、総長のもとに総局が置かれ、祭務、総務、教務、財務、管理、内事、大道場等の諸部門を統括し、その代表責任役員として本部長が教団の運営にあたっています。
全教団の事務は教団本部で行う一方、教団運営の重要問題については、全国から選出された信徒総代で構成される総代会に諮問(しもん)・審議され、本苑長、分苑長、主会長会議を通じて運営されています。
また、教団の各分野の業務を遂行するため、総局のもとに、宣伝部、芸術部、編集部、出版部、宣伝使会、直心会(じきしんかい)(女性信徒で構成)、青松会(せいしょうかい)(31歳から50歳の男女信徒で構成)、青少年部等があります。
なお、外郭(がいかく)団体として、「人類愛善会」、社団法人「愛善みずほ会」、「エスペラント普及会」、社会福祉法人「愛善信光会」、社会福祉法人「このはな」があります。
↑ このページの最初に戻る大本の地方組織は7百カ所余りあり、ほぼ全国的に均等に設けられています。およそ都道府県単位に、組織の中核として神さまを奉斎する広間をもつ本苑(法人)と分苑(原則として法人)、広間はもたないが事務機能をもつ主会が設置され、管下の分所、支部、会合所を統括して、宣教や祭祀に関すること、また事務もあわせて行っています。
また、末端組織である分所、支部にはそれぞれ原則として個人宅ながら神さまをお祭りし、毎月1回、定例の月次祭を行い、数世帯から数十世帯の信徒の世話をしています。
↑ このページの最初に戻る大本では、人々の魂の救済を中心に、非常に広範な社会改善運動を行っています。その中心は、宗教活動として教えの普及を第一義に置いて、人心の浄化と、向上を図ることを社会改善の大根底としています。出版、ラジオ放送、ホームページ開設や講演会、座談会などがそれです。
そのほかに、次の外郭団体があります。
愛善の精神にもとづき人種、宗教などのあらゆる障壁を越えて人類同胞観を普及し、世界文化の向上と恒久平和の達成に尽くすことを目的とした文化団体として人類愛善会があり、宗教間の和合を図る宗際化、世界連邦運動の推進を図るなど世界や社会の改善を促進しています。
さらには、国際語エスペラントを普及する団体としてエスペラント普及会があり、農業技術や農業経営を指導する団体として社団法人愛善みずほ会が、また、光耀会のもとに亀岡保育園を経営する社会福祉法人愛善信光会、「ケアハウス朝野」を経営する社会福祉法人このはながあります。そして、教団関係の各種書籍類の出版活動等を行う団体として株式会社天声社があります。
これらの団体は、宗教の枠を超えて、広く社会に門戸を開き、各方面でそれぞれ社会改善をめざし活動しています。
↑ このページの最初に戻る私たちが神さまと通じるその窓口は、3つあります。1つは、善や愛という方面から神さまに通じる道、これは宗教や道徳であり、第二は科学的な真理や道理によって神さまに通じる道、つまり学問です。第三は、美によって神さまに通じる道、芸術です。これらの3つは、いずれも私たちを神さまのもとに導く門戸です。中でも美は、老若男女を問わず本能的に理解し欲求し、また体得しやすい共通の道です。
大本では、大本楽天社を中心に芸術活動をすすめています。「芸術は宗教の母なり」との聖師の教えによるものです。大自然の運行、造化のはたらきこそ神さまの大芸術活動であり、自然の大芸術から宗教は生まれたものであり、いきいきとした美的生活を通して、人間の情操をより健全に、しかも豊かに発達させていこうとしています。
宗教(信仰)と芸術とは、ともに私たちの生活をよりよく導く車の両輪のようなもので、昔から芸術を深く追求した人は宗教に進み、信仰的に深く進んだ人は芸術的なうるおいのある生活を営んでいます。こうした意味で、大本では芸術生活が人類の今後の生活に欠くことのできない大切な要素であるとして、宗教とともに普及に力を入れているのです。
↑ このページの最初に戻るポーランドの眼医者であったザメンホフ博士(1859〜1917)は、明治20年(1887)に国際共通語エスペラントを創案し、発表しました。このエスペラントは、ただ単に便利な世界の共通語であるというだけでなく、その中には人類の長い間の悲願である「お互いが心と心を開きあい、人間同士のつきあいをしたい」という望みがこめられています。
ザメンホフ博士は自分の生々しい体験を通して、言葉が違い国籍が異なるだけでお互いの人間らしさを伝えないでイガミあっている世界の実態を、国際共通語の普及によって何とか救いたいと願ったのです。エスペラントを創案した後には宗教宗派を超えた信仰(一つの神に帰一する)を人類に呼びかけました。
このように国際共通語エスペラントのもつ意義は、大本のもつ世界観に一脈通じていました。一つの神のもと、一つの世界に住む神の子としての人類が、お互いにわけへだてなく生きるよろこびをわかちあう、ということです。こうした理由で、大本では聖師が、大正12年(1923)にエスペラントを採用されたのです。
↑ このページの最初に戻る大本は、お土を大切にする教団です。
開祖は、一握りのお土の方が、金銀にまさる時代が来ると教えられ、聖師さまも若いころから農に親しまれ、指導されました。
二代教主は、その教団の伝統を受け継がれ、昭和23年、節分祭の日に、社団法人 愛善みずほ会を創立、初代総裁にお就きになり、土作りを中心にした増産運動を全国的に展開されました。
みずほ会の会員は、昭和25年ごろには全国に4万人余になり、賛同者は40万人に及んでいました。
その後、近代農法(化学肥料、農薬使用による農法)が全国的に広まり、土作り、減(無)農薬によるみずほ農法の運動も少し厳しい時代を迎えましたが、出口直日三代教主は早くから近代農法を憂えられ、日本農業に良い型をと願われました。そして本会が主導開発した有機質発酵肥料を「明星」とご命名になり、この肥料が日本農業の救世主になってほしいと、普及につとめられました。また、田植え、稲刈りなど、率先してみずほ会の指導にあたられました。
出口聖子(きよこ)四代教主も、遺伝子組み換え作物(食品)が発表されると、真っ先に「子々孫々の為に許せないことです」と反対運動の先頭にお立ちになりました。遺伝子組み換え食物が会社の営利のため(遺伝子組み換え作物と除草剤がセットになっている。人間の健康よりも利益が優先)につくられた物であることを、厳しく指摘されました。
みずほ会では、安全・安心・美味しい作物作りを指導してきましたが、消費者の意識(農薬害、栄養低下作物を知る)が変わらないと、作る側も変わらない(作っても売れない)ことから、愛善みずほ農法を認証制にし、一層、安全・安心・美味しい作物づくりを指導しました。また消費者にも分かってもらうために、作る側と食べる側の一体的な研修会を開催し、良い型を出させていただきたいと、実践指導しています。
現教主も愛善みずほ会の四代総裁にご就任になると、「私も実践します」と神饌田の田植えに、ご視察に、稲刈りにお出ましになり、また寸暇を惜しんで菜園に鍬を振るわれています。
教団の食・農・環境問題は、社団法人愛善みずほ会、人類愛善会、直心会(婦人部)がともに連帯して担い、活動を展開しています。
なお、愛善みずほ会では、自然食品、減(無)農薬農作物等を販売する店舗「ドーモ」を亀岡市で経営しています。
大本の農業・環境問題への取り組みに関しては、愛善みずほ会へお問い合わせください。
↑ このページの最初に戻る大本の海外での活動は、大正12年(1923)、聖師がエスペラントを大本に採用されるとともに、本格化しました。大正14年(1925)から10年間、ヨーロッパではパリに、アジアでは北京、満州(現中国東北部)、タイに、南米ではブラジルにと、次々に大本の海外本部がつくられました。また、主として愛善の精神にもとづき、超宗教的に人類の和合をはかることを目的として、世界に点在する清新な諸宗教や精神運動と、相互に提携をすすめていました。しかし、こうした活動は、昭和10年(1935)におこった第2次大本事件によって、一時中断してしまいました。
昭和21年(1946)に再発足した大本は、再び活発な海外活動をはじめ、ほとんど毎年、教団からの派遣者がアジア、ヨーロッパ、南北アメリカへ出かけています。ことに中南米では、ブラジルを中心に確固たる大本の組織ができあがっています。
現在、教団からは、エスペラント文と英文の機関誌が、海外100カ国余りに向けて発行されています。インターネットの大本のサイトには、日本語、エスペラント語、英語、ポルトガル語、ローマ字などで最新の情報が掲載されています。
また大本海外作品展が、昭和47年の秋から50年までの4カ年にわたり、フランス、イギリス、オランダ、ベルギー、アメリカ、カナダの6カ国、13会場で開催され、30余万人の観覧者を数えました。聖師が「芸術は宗教の母なり」とご教示されているように、芸術を通して天地創造の神さまに通じる 現代の奇蹟 と高い評価を受けました。欧米の人々の心に生命の生気を吹き込み、精神文明の立直しに大きな足跡を残したと思われます。
また、この芸術展開催中に、ニューヨーク展会場の聖ヨハネ大聖堂と、サンフランシスコ展会場のグレース大寺院で、宗教宗派を越えて、大本による祭式で「世界平和祈願」の祭典が行われ、献茶、能楽、八雲琴が奉納されました。
さらに、昭和50年10月19日から24日まで、ニューヨーク市の聖ヨハネ大聖堂と国連会議場で開催された、国際連合創設30周年を記念する、TOU(理解の殿堂)主催の世界宗教精神頂上会議の期間中、世界の平和と会議の成功を祈る祭典が大本の祭式によって行われました。
さらにユダヤ教、キリスト教、イスラム、仏教、ヒンズーなどの世界宗教と密接な交流の輪を広げ、平成5年11月には、大本開教100年を記念して、綾部の長生殿で世界宗教者の祈りとフォーラムを開催し、世界の宗教者と話し合い、共に祈りました。平成14年には第2回世界宗教者の祈りとフォーラムを京都市内で開催しました。
↑ このページの最初に戻る大本の青年の全国組織である 大本青年部は、15歳から30歳(地方機関の役員は35歳)までの青年信徒を部員とし、大本の教えを学び、その実践を通じて、自己を高め、社会の発展に貢献し、神の意図する理想世界建設に奉仕することを目的として活動しています。
大本青年部では幅広い人材を養成するために、青年社会人講座、大学生講座、高校生講座、冬期中学生研修会、少年夏期学級、聖地献労、農業体験講座、祭式講習会、エスペラント講座といった研修会を、土・日曜日、連休日、春夏冬の休日など、機会あるごとに本部や地方で開催しています。また、地方部員が1カ年を通じて研修した成果を、1年おきに亀岡の聖地・天恩郷で開催する大本青年祭と大本少年祭で奉納発表し、一層の向上促進に励んでいます。
さらに、青年部員は、少年部員を指導して、次代の人材育成に当たるとともに、実社会にあっては大本の教えの実践に励み、世界平和のための世界連邦運動の啓蒙活動や、地域社会へのボランティア活動などにも積極的に取り組んでいます。
↑ このページの最初に戻る大本は、他の宗教と較べて、多くの特徴をもっています。その主な点を列記すれば、
1、二大教祖をもっていること
2、教祖・歴代の教主・教主補に、神の真理をその人格の上にあらわす神人がたたれること
3、世界最古の神霊を奉戴して、一切を肯定し、世界の中心・最高所をこころざす団体であること
4、大本には、奇蹟が多く、信仰上の霊的体験が量においても質においても豊富であること
5、神霊界の実在、個性的霊魂の不滅などに関して大本ほど明細に説いている宗団は少ないこと。
その結果として、
(ア) 大本信徒は、教義に従い、きわめて自由なほがらかさを多分に持っており、しかもよく教主を敬い秩序を重んじていること。
(イ) 大本は、救世の世界的使命と教義を明示しており、信徒はその使命を果たすために懸命に活動していること。
などをあげることができます。
↑ このページの最初に戻る大本より外にはないという特徴は、主神の神霊が、開教以来、末永く大本に降下され、主神の意志のままに、現界救済の仕組みが大本を基軸に展開されて、永遠につづく理想世界を大本から建設されつつあるという事実です。
開教から今日まで、大本の中には人々が驚嘆する神威、霊的現象、奇蹟などが、数えきれないほど続出していて、主神の降下をハッキリと実証しています。また、大本は主神の仕組まれた神業を遂行する世界の中心であり、「型の出る大本」「世界の鏡となる大本」として、教典の中に次のように示されています。
「世界へ善と悪とのかがみを出す大本であるぞよ。いままでは、日本だけのことでありたが、これからは、世界のかがみになる大本にいたすぞよ」
これは、大本の中におこる事柄はすべて日本、世界に拡大波及していくものであるというみ教えです。事実、今日まで、大本は数えきれないほど、その神秘的事実を積み重ねてきていて、救世教団としての権威をハッキリ示しています。このように、大本は「神々の大本」「世の大本」としての使命をもっているということが、一番の特徴といえましょう。
↑ このページの最初に戻る大本のことをくわしくお聞きになりたい方は、大本本部のある京都府亀岡市天恩郷の大道場へお越しください。ここでは年中無休で5日間の講座が開かれており、「神と人」「霊界の真相」「世界の救済」「宇宙の原理」「現代の大本」などというテーマで、専門の講師が分かり易く講話をしてくれます。受講料は無料ですが食費(朝食250円、昼・夕食各400円)と宿泊費(一泊800円)が必要です。
すがすがしく、しかも暖かい雰囲気のもとで4日間の講座をすませ、5日目には綾部の本部へお参りして講座を終わることになっています。
また、全国各地に地方機関として、本苑、分苑、主会、分所、支部、会合所という組織がありますので、一番近いところをお尋ね下さい。そこでも、組織長が管下の信徒のお世話や大本のみ教えをお伝えしています。そこには大本の図書も備えてあり、役員や信徒の人々に、大本の話をくわしく尋ねられますと、親切にいろいろと質問に答えてくれます。
なお、大本では月刊機関誌「おほもと」(年間5520円〒共)を発行していますので、発行所(京都府亀岡市天恩郷、株式会社 天声社)へ購読をお申し込みになり、大本についてさらにご研究下さい。
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