最初に目につくのは、ゆるやかな曲線を描く長生殿の屋根の形です。後方の山の稜線とよく調和し、まるでその一部のように見えます。それは偶然の産物ではありません。“自然との調和”は、日本の伝統的な建築様式に不可欠な要素です。そして、その日本の伝統的な建築様式というのは、長生殿に不可欠な要素です。
長生殿というのは、永遠の建物という意味で、大本の綾部における主要な神殿として、また、典型的な日本の伝統的建築物として設計されています。
「私たちの優先事項は、建物と山々の調和を保つことでした」。工事監督の岩崎國夫氏は、1992年の大本開教100周年記念の年に完成した、6年に及ぶプロジェクトを思い起こして言いました。
長生殿は、当初、みろく殿よりも大きなものを想定していました。みろく殿というのは、長生殿の近くに建つ究極の愛と思いやりを意味する建物です。建築方法と材料は、共に現代と伝統の両方を用いて作られ、1953年に完成しました。
出口直日3代教主は長生殿建設計画の立役者で、彼女付きの建築家である杢正夫氏は最終的に、調和こそが重要で、長生殿の大きさはあまり重要な要素ではないと判断しました。
彼らは、わざわざ長生殿のサイズを小さくしました。なぜなら、より小さな建物の方が、周りの丘とよく溶け合うと判断したからだと岩崎氏は語りました。
岩崎氏は、ここ55年間の大本での工事計画すべてに関わっています。現在83歳で、亀岡に大本の老人ホームを建てる手助けをしています。
「働き続けるのが私の運命です」と、彼はつぶやきました。
岩崎氏は、まるで木の切り株のような、背が低くがっしりした人物です。
彼は、どの質問にも単に答えるだけではありません。建築技術や、材料選びの際の問題点、大本の教祖の1人・出口王仁三郎の懐古談について、誇りを持って、詳細に説明してくれました。
岩崎氏が通訳を介して私と語っているのは、2001年11月6日、出口なお開祖の天へのお帰りを寿ぐ秋季大祭の日の午後です。この日は、じめじめした荒れた天候で、木の葉は深紅や金に変わりつつありました。
出口紅5代教主ご臨席のもと、2000人以上の参拝者とともに、この日の午前中に長生殿内で執行された祭典で、秋の大み祭が幕を開けました。紅教主は、出口なおのひ孫で、今年4月に亡くなった4代教主の姪にあたります。(紅とは、この紅葉の季節にふさわしい名です)
岩崎氏へのインタビューは、綾部における教主公邸である緑寿館(常緑の公邸)の客間で行われました。大本は、長生殿の数年前に、同じく伝統的な建築方法と材料を用いて緑寿館を建設しました。
緑寿館は、受付、ご神前、客間、教主の私室と別棟の茶室を備え付けた、伝統的な建物と庭とが混在する総合的な建築物として設計されました。
その公邸は、長生殿という、より大きな計画の良い訓練となったことを証明しました。長生殿は、5つの大きな広間が連結していて、そのうちの2つが神殿です。
「緑寿館を建設している間は、本当に長生殿を建てることができるのか分かりませんでした」と岩崎氏は思い起こしました。「後から思うと良い訓練になりました。緑寿館を建てることで、問題点が分かりました」
大問題は、材木の選定だったと彼は言いました。その建物には、大きなスギが大量に必要で、その大きさが重要でした。
伝統的な日本建築では、その建物の部分、部分すべて、一本の丸太を最低限度に切り分け、それらを組み合わせて作られます。釘は使いません。切り分けられた木材は、巨大なジグソーパズルのようにぴったり合います。
例えば、緑寿館にある小さな浴槽を備えている一つの部屋が、たった一本の丸太から作られたのです。
岩崎氏は出身地の島根県で、探していたヒマラヤスギを発見しました。島根県は綾部市の北西に位置し、日本海に面しています。彼自ら木材を選定し、それらは切り倒され、トラックによって建設現場まで運ばれました。平均して樹齢300年、直径1.5メートルのヒマラヤスギでした。二つの建設工事には、マツとヒノキも必要でした。マツ材の中には、樹齢500年のものもありました。
それらの建設工事の時期、大本の信徒の中には大工が大勢いました。彼らは、緑寿館と、続く長生殿の計画を知ると、志願してその工事に従事しました。
現代の大工と同じく、彼らが伝統的技術に精通しているとは決していえませんでした。彼らは、伝統的な建築物に、くぎや金属の金具を使わないことは知っていましたが、その方法で建物を建てた経験は無い、もしくはほとんど無い状況でした。
「これは彼らのための教育でした」と、岩崎氏は言いました。「彼らは、昼間は働き、夜間に必要な技術を勉強しました」。職人は、銅葺きや瓦葺きの屋根工事、しっくい塗り、そして背景との調和など、伝統建築に通じるための訓練を多面的に行わなければなりませんでした。
実際に、2つの工事を通じて、新しい世代の若い大工が日本の伝統的な建築技術を学べるように、出口直日三代教主は意図していました。緑寿館の建設では、およそ15〜20人の大工が雇われ、長生殿の工事期間では、150〜200人だったと、岩崎氏は言います。
岩崎氏は、長生殿、緑寿館、そして、伝統と現代の材料と方法を併せて作られた亀岡の万祥殿(永遠の繁栄の殿堂)造営の監督を務めました。
彼は5年間の兵役を終えた後、1946年に大本に入信し、その年、初めて綾部を訪れました。当時、綾部の地には、1921年と1935年の政府による弾圧で、がれきしかなかったことを岩崎氏は覚えています。彼の最初の仕事は、がれきの片付けの手伝いでした。
当時の彼は、綾部にこのようなすばらしい建物が建つ日が来ることを、想像したでしょうか。「私たちは、大本にかつては、巨大な建物がいくつもあったことを知っていたので、再建するという漠然とした思いは持っていました」と、彼は言いました。「しかし、この規模で再建できるとは、まったく思ってもみませんでした」。
そんな入信初期の時代で、岩崎氏が最も忘れられないことは、みんなとても貧しく、とてもおなかがすいていたということです。戦後、食べるものは、米すらほとんどありませんでした。食事は、おそらくお米と何かの野草が少し入っただけの、薄い水っぽいスープでした。晩ご飯に遅れた人たちは、お湯だけしかないという目に合いました。
「あなたが覗き込んだら、水面に映ったご自分の顔が見えるくらい、とても水っぽいものでしたよ」と、岩崎氏は回想しました。
岩崎氏が初めて綾部を訪れた時、出口王仁三郎は、まだ綾部に住んでいました。王仁三郎は常に歓迎してくれ、それは単に宗教的な理由からだけではありませんでした。
「王仁三郎聖師が、私たちに食べ物をくれる姿をいつも見ていました」と、岩崎氏は言います。「だいたいは甘いもので、それを聖師は着物の袖に隠していました」。王仁三郎が、どこでそのおいしい食べ物を手に入れていたのか、岩崎氏は分からずじまいです。
出口なおと出口王仁三郎の啓示には、長生殿の建設は予告されていました。王仁三郎は2回、長生殿を建て始めましたが、大日本帝国政府による弾圧の際、破壊されてしまったのです。1948年の王仁三郎の死によって、神託である長生殿は未完となりました。
神からの命を成し遂げるのは、王仁三郎の娘である出口直日の役目となり、それが完成したのは父の死後40年たってのことでした。
出口家の人々の多くには芸術の才能がありますが、その中でも、出口直日の芸術的感性は、特によく磨かれていたようです。彼女が教主であったとき大本では、精神的な稽古として、芸術をかなり重要視していました。それは、王仁三郎の教えの一つでした。
直日自身、熟練した書家や絵描き、作陶家、茶道師範となり、能にも通じていました。
たとえ正式な訓練を受けていなくても、彼女は日本の伝統的な建築術に精通していましたし、そういった建物が、宗教の価値の重要な部分を表し、日本人が何世代にもわたって参拝するものだと信じていました。
1973年11月6日に、緑寿館の建設決定が発表され、彼女は参拝者に語りました。
「私は、大本の教風をいっそう高めるとともに、日本文化の分野での最高の素材と伝統的な建築技術を駆使して、20世紀後半の宝となる建物を築いていただきたいと願っています」
緑寿館は1980年に完成しました。その後、1984年の開祖大祭で、出口直日は、大本の長生殿造営を発表しました。工事は1986年の5月5日に始まり、1992年の11月に完成しました。残念ながら、直日は彼女の理想の完成を見届けることができませんでした。彼女は1990年に亡くなりました。
長生殿について、出口直日の理想よりも注目すべき唯一のことは、建設費用でした。建設には100億円かかりました。現在の為替レートでは、100万USドルより少し少ないくらいでしょう。しかし今日、長生殿がたったの100億円で建てられたとは想像し難いです。1970年代後半に建てられた教主公邸には、1億6千万円かかりました。
出口直日が芸術と精神を重要視したのなら、彼女が、長生殿造などの大掛かりな芸術的事業に着手するのは、必然であったようです。ある意味では、まだ生まれていない日本人が何世紀にも渡ってこの建物を訪れ、鑑賞し、良さを味わうための大本からの贈り物なのです。
これだけのサイズや複雑さにおいて、伝統的な建築様式や材料、建設技術だけを用いて作られた別の建物は想像できません。
「三代教主さまは、未来のために、伝統的な建物を保存しなければならないとおっしゃいました」、と岩崎氏は振り返りました。「未来のために」。
(2000年11月19日)
岩崎國男氏。長生殿などの工事責任者
開祖大祭での長生殿入殿前の祭員
開祖大祭の準備をする祭員
緑寿館の浴槽
岩崎國男氏。緑寿館にて