おほもと Oomoto

平和への道「大本の使命」

ビル・ロバーツ(日本語訳=矢野裕巳)

  1. グローバル
  2. > 日本語ホームページ
  3. > 私が見た大本
英文はこちらから

こんにちは。ビル・ロバーツです。ヨロシクオネガイシマス。

私は今までに何度か広島を訪問しています。しかし広島本苑には初めて来させていただきました。広島本苑月次祭に参拝できましたことをうれしく思います。

2001年に大本の地方支部訪問を初めて以来、およそ20もの神の家を訪れました。そのほとんどは「素顔の大本」出版の為の取材が目的でした。この本は昨年天声社から発行されました。現在この本の日本語訳が青年部の月刊誌「まつごころ」に発表されています。また人類愛善会のホームページにも連載されています。この本を1冊広島本苑にこの場で贈呈させて頂きたいと思います。英語を読まれない方は、写真だけでも十分に楽しんでいただけると思います。

{杉山本苑長、恐れ入りますが前にお越しいただけますか?}

それと、もう1冊、2005年の沓島現地訪問の写真集を作りました。これも合わせて本苑に寄贈させていただきます。

私は現地参拝を許された最初の外国人です。「素顔の大本」の最初の章は沓島についてです。多くの読者がこの沓島についてのストーリーと写真に感銘したとの声を聞いています。本が出版がされたにもかかわらず、なぜこのように大本の地方支部を訪れるのか、皆様は疑問に思われるかも知れません。いくつかの理由があって私は支部訪問を継続し、大本信徒の方々とお会いし、写真を撮り続けているのです。

もちろん、本の改訂版の発行も将来において考えていますが、なによりも英語、エスペラント、日本語の3カ国語のキャプション(写真説明)をつけた大本写真集の発行を考えているからです。大本の地方機関を訪問することで私自身の大本に対する理解が広がっています。執筆後も、新しい出会いによって新たなことを学んでいます。本日は広島に来させて頂いたのですから、私自身の体験を含め戦争と平和についてお話させて頂きたいと考えています。

まずは少しくバックグランドから述べましょう。

私の大本との出会いは芸術から始まります。9年前、1998年、カルフォルニア在住のコーリーン・キーベルト女史のもと陶芸を学び始めました。女史は1980年代に主に外国人を対象とした大本伝統芸術セミナーの卒苑生です。ある日先生はグループで大本への旅行を企画していると話されました。その時に王仁三郎聖師の耀碗の写真を示されました。それまで私は大本や耀碗について何も知りませんでした。もちろん茶碗や茶道についても知識はありませんでした。しかし耀碗に強く心を奪われ、もっと知りたいと感じました。そして大本に参りました。

最初の訪問は1999年で、2000年、2001年にもコーリン女史と共に大本を訪れました。その後大本から英文編集の手伝いを依頼され、2001年の後半3ヶ月間国際部で短期奉仕をさせていただきました。その後もボランティアとして何度かいくつかのプロジェクトに関わり、その経験が本の出版につながりました。

私が初めて日本の土を踏んだのは50歳になる直前でした。それまでも日本は私にとって特別なものでした。私の両親は第2次世界大戦後、進駐軍の職員として東京で出会いました。父は陸軍将校で母は秘書として来日しました。そして両親は、1947年(昭和22年)東京で結婚しました。両親は北海道、京都を始め、戦後の日本の各地を旅行しました。

富士山に登るなど生涯の思い出となる多くの体験をしました。私は彼らの最初の子供として1950年、米国で生まれました。しかし私は1949年4月、両親が日本を離れるおよそ3ヶ月前母の胎内に宿っていました。文字通り、1950年代の米国を席巻した トランジスターラジオ同様、私は「Made in Japan 」そのものです。1999年4月の私の最初の日本訪問は日本で母の胎内に宿って以来ちょうど50年目でした。

私は広く世界を旅行し、また数カ国で暮らしたことがあります。しかし日本の芸術と文化は私を虜にします。特に大本を訪問する時にこのことを強く感じます。普段私はシリコンバレーに住んでいます。フリーのジャーナリストとしてエレクトロニクス産業について書いています。

シリコンバレーはカルフォルニアのサンタ・クララ郡のニックネームで、半導体産業の生誕地です。中心都市はサンノゼでサンフランシスコから南へおよそ90キロです。お話したように、芸術を通して私は大本を知りました。しかし時が経つにつれて、大本は芸術だけではないことを理解し始めました。そういうことで本のサブタイトルは「21世紀における芸術、精神、そして平和への道」となっています。

大本で私が一番気に入っているのは芸術に対する取り組み、姿勢です。しかし私が最も敬意を払うのは平和への道としての宗際対話への取り組みです。大本は「万教同根」という教義を持つ点で多くの宗教と異なります。結果として各宗教間の敬意を促進しました。

宗際対話が現在のように広がるずっと以前から大本は真剣に取り組んできました。私よりずっと賢明なある人物がかつて次のように言いました。「すべての宗教がお互いに尊敬しあう時代が来なければ世界は平和にならない。」尊敬への橋とは対話できることです。そういうわけで宗際対話は平和には不可欠なのです。

広島の皆様は平和について多くをご存知でしょう。私は初めて平和公園を訪問した時のことを決して忘れることができません。2000年の春、2度目の大本訪問の時でした。友人と私はグループのスケジュールを1日休み広島を訪問しました。通訳なしで初めて新幹線で広島まで来ました。ちょっとした冒険でした。平和公園で博物館を通り、映画を鑑賞し展示品を見て回りました。それははらわたをえぐられるような経験でした。恐らく私は一般の米国人より歴史をよく理解していると思います。米国の原子爆弾使用についてもかなり知っていました。そして米国政府の原爆投下への議論についても知識がありました。原子爆弾がどれほどの破壊をもたらすのか、写真を通して知っていました。

今や古典となった米国人ジョン・ハーシィーの記ことを読んだことがあります。この記ことは雑誌「ニューヨーカー」に広島原爆投下1年を記念して発表され、後に「広島」というタイトルで本になりました。

この本は今でも発行され、1945年8月6日に何が起こったのかを米国人が知ることのできる重要な資料です。ハーシィーは広島の1つの地区の6人の犠牲者の話を、心を強くとらえる詳細さで語っています。それは犠牲者の親戚、友人への広範なインタビューを基に書かれています。ハーシィーは間違いなく人類にとって最も非人道的行為へ米国人の顔を向けさせたのでした。そんなわけで、私は平和公園を訪問する前から広島原爆投下についてかなり知っていました。それでも2000年4月のその日、私は驚愕し、口が利けなくなりました。すべての米国大統領はこの原爆資料館を訪問するよう合衆国憲法に定めなければならないと思った日のことを今も覚えています。

資料館の建物から出て、友人と私は暖かい日だまりに座り込んでしまいました。話すことも泣くことも、何もできませんでした。かなりの時間が流れて、私たちは平和公園を歩きはじめました。公園は生命、喜び、平和に満ちていました。土曜日、桜の季節で、沢山の家族連れがピクニックを楽しみ花見をしていました。これはたった今、資料館で見ていた光景とはあまりにも対照的でした。私にとって、また友人にとってどんなに慰められたか解りません。昨日を含め3回平和公園を訪れました。常に同じ気持ちになりますが、最初の訪問が最も感動的でした。

資料館を訪問するたびにこれと同じような感情を抱く場所がいくつかあります。私は戦争の恐怖を感じる一連の特異な体験をもっています。多くの米国人が体験しないことで恐らく多くの日本人も経験していないと思われます。

私が8歳の時、父は北東フランスのメッツという市の米国駐留部隊に転任となりました。メッツはバーダンからおよそ50キロ離れたところです。バーダンは第1次世界大戦最大の激戦地の1つで、フランスとドイツの戦いは10ヶ月続きました。最大の流血塹壕戦争で、死傷者はフランス軍54万人、ドイツ軍43万人であったと推定されています。両国で100万人以上の死傷者数ではっきりとした数は解っていません。この戦いでどちらか一方が勝利したわけでも、利益を得たわけでもありません。バーダンは第1次世界大戦で最も野蛮で無益な戦いでした。あまりにも多くの死者で、塹壕は土で埋められ大きな墓場と化しました。多くの場所で銃剣が地面から突き出ていて、それはまるで錆びついたトゲのある植物が芽を出しているようでした。戦場は1つの大きな墓地となりました。塹壕の1コーナーに記念の建物を建設しました。バーダンは私達が家族旅行で訪問した最初の場所の1つでした。8歳の少年であった私はその虐殺についてはほとんど理解できませんでした。しかしこれが私の幼少体験の中で最初に学んだことです。戦争は残忍であり、致命的かつ無意味である。平和こそが、よりよい選択なのです。

ヨーロッパで暮らした3年間、私は他の戦争の遺物も目のあたりにしました。私達は1944年6月6日、連合軍のフランス上陸地も訪れました。何千人もの米国兵、英国兵、そしてカナダ兵の墓場はノルマンディ海岸の崖の上にありました。私達はまたダカウを訪問しました。ダカウは第2次世界大戦の強制収容所キャンプの1つで、ドイツの美しい地方であるミュンヘン郊外にあります。ダカウでドイツ人はユダヤ人、カトリック教徒、ジプシー、エホバの証人、共産主義者、そして他の政治犯、反体制活動家、同性愛者その他ドイツが処分したい人を投獄しました。しかし、特にユダヤ人を対象にしました。

当初、ダカウは強制労働に使われていました。後にナチスがユダヤ人の集団殺害を開始するとダカウは大量虐殺地の1つとなりました。ダカウは現在博物館であり記念館になっています。兵舎のいくつかは保存されていて、その1つは囚人をシャワー室に入れた建物です。シャワーの代わりにガスも使われました。火葬用に使われたかまども数点保存されていました。このように実際の目で戦争と全滅の恐怖を見たのでした。

ヨーロッパで私達家族は多くの素晴らしい景色をみました。でも私が出会ったバーダン、ノルマンディ、ダカウでの戦争の傷跡は教会、城、文化のどれよりも私の幼い心に強い印象を残しました。

後に私はホロコーストに出会います。私は1年間エルサレムのヘブライ大学に留学していました。その時ヤッド・バシャムを訪れました。それはホロコーストで亡くなった何百万人ものユダヤ人のためのイスラエルの記念館です。ヤッド・バシャムは「神の手」を意味します。

イスラエルにいた35年前、私は多くのホロコーストの生き残りの方と出会いました。すぐにそれとわかりました。腕に強制収容所キャンプナンバーが入れ墨として残っていたからです。私はこの人達を見ても別段心を動かされることはありませんでした。イスラエル人ルームメートの母親に出会うまでは。彼女はルーマニア出身で強制収容所の1つに入れられていました。私はどの収容所かは決して尋ねませんでした。その母親が大学寮を訪ねて来た時、彼女の腕の入れ墨を見て私は涙がこぼれそうになりました。

ダカウは一度訪問したら十分なところです。しかし私はおよそ20年前にも訪問する機会がありました。大人になっての感想も子供の時の感情と同じものでした。深い悲しみ、怒り、嫌悪そして無意味さを感じました。これは広島で感じたもの、あるいは2005年1月に訪問した長崎と同じ感情でした。本の執筆の為私は長崎に行きました。3人の原爆経験者にンタビューを試みました。その中の1人は鬼塚あきこさんで、当時長崎分苑長でした。

1945年8月9日の長崎への原爆投下時、彼女はまだ5歳でしたが多くのことを記憶しておられました。あきこさんのお母さんがたまたまその日造船所の仕ことを休んでいたこと、造船所の1部は爆風で破壊され、もしお母さんが普通どおり仕ことに行っていたら命を失っていた可能性が高かったそうです。3人の原爆経験者は共に米国人に恨みを持っているのではなく、このようなことが2度と起こらないように努力したいと話されました。鬼塚夫人は大本の信仰を通して平和に寄与し、もう1人は原爆生存者の記録をビデオや書き物で収集するすることによって、またもう1人は子供たちに本当のことを伝えていくことで、それぞれ平和な世界を築く為の役割を果たそうとされていました。私は原爆記念館と爆心地を当時南九州特派宣伝使、松永梅男さんと回りました。後に松永さんは長崎で亡くなった人の霊がまだ静まっていないと感じたと話されました。教主様がこの地にお越しになった時も同じようなコメントをされたと松永特派宣伝使は私に語ってくれました。私自身は自分自身に怒りを感じました。その感情は平和公園、ダカウ、ヤドバシャムで感じたものです。同じ怒りを感じたことがあります。私が高校を卒業して1年も経たないうちに、仲間の一人がベトナムで狙撃兵の凶弾により命を落とした時でした。私の母国米国を含め戦争をあおり立てるため軍こと的、政治的、また経済的な力を振りかざす国に対して怒りを感じます。今でも大量破壊兵器の製造を続ける国々に対して同様の怒りを感じます。

歴史家による議論は永遠に続くでしょう。米国が戦争終結のため原爆投下に踏み切らなければならなかったかどうかについて。どちらの意見にも主張はあります。しかし、合衆国機密解除文書に照らしても原爆投下への必然性に対しては説得力がなくなっています。とりわけ天皇が1945年7月にトルーマン大統領に送ったテレグラムの内容には降伏に関して話し合う用意があったと述べられているのですから。

私の世代の多くの米国人がそうであるように私自身も次のように教えられ信じ込まされてきました。「我々は原爆を投下することによって戦争を終結させることができたのです。これが唯一の方法だったのです。」今日我々は大量破壊兵器を用いずとも戦争を終わらせることができたと私は考えています。あるいはフランスで何千人もの兵士を失うことなく進攻することもできたとも考えています。

日本軍は第2次世界大戦中多くの残虐行為を行なったと思われます。真珠湾攻撃では2,500名の命を奪いました。そのほとんどが兵士でした。しかし長崎、広島の犠牲者の多くは女性、子供、年配者でした。この人達の命が真珠湾の償いになるはずがありません。

王仁三郎は当時の日本政府の行動に強い警鐘を鳴らしていたと聞きます。それを無視したことが東京大空襲、そして広島、長崎へとつながったのでしょう。それどころか王仁三郎は投獄されてしまいました。

本の執筆の為大本に長期に滞在していた年は原爆投下60周年でした。私は1980年代に勤務していた日刊紙デトロイト・フリープレスに長崎でインタビューした3人について記ことを書きました。そして原爆投下は本当に正当化されるのか? 本当に必要であったのか?と読者に問いかけました。反響は大きなものでした。読者からおよそ30通のメールを受け取りました。この種の記ことに対しては多いと思われます。約半数の人は私の意見に賛成で、その多くは私がこの記ことを書いたことを賛辞してくれました。また約半数の人は怒っていました。中にはかなり侮辱的なものもあり、2度と米国へ戻るなと書いてありました。私のことを国賊とも書いていました。

現在の米国で平和について書いたり話したりする時には注意する必要があります。私はそれぞれのメールに注意深く返ことを書きました。メールでの対話を試みました。たとえ反対の意見であれ相手の意見を理解するよう促したのです。現在の米国ではこの種の戦争と平和に関する対話の機会が少なすぎるのです。

2001年9月11日のテロに、米国人をはじめ多くの人がショックを受け憤慨しました。私自身もショックを受けましたが、多くの米国人ほど憤慨しませんでした。人は9・11より恐ろしい行為をすることがあることを知悉していたからです。確かに恐ろしい殺人でしたが、9・11の殺戮は広島、長崎への一般人への殺戮と比べることは出来ません。多くの米国人はそれを頭では理解していますが、心底解っているとは言えません。多くの人は広島、長崎を訪れたことがないからです。

不幸なことに米国の指導者は9・11に対する集団の怒りにつけ込みました。欺きと巧みな操作を通じて我々の盲目的怒りを利用しイラク戦争を始めたのです。現在我々は愚かな行為のつけをもって生きているのです。今日多くの米国人はイラク侵攻は間違いであったことを認識しています。4年前には多くの人が戦争を支持したのですが。私自身はイラク侵攻については一度も支持したことはありません。大義名分をもたず他の国を先制攻撃することは道義に反すると強く考えるからです。1941年の日本による真珠湾攻撃が間違いであったように米国による2003年のイラク攻撃も間違いであったと思います。

現実問題として私は中東の歴史も学んだことがあります。サダム・フセインを排除することは容易だと思っていました。しかしイラク部族間に平和を築くことは不可能と言えないまでもかなりの困難であろうと予想していました。少数の卓

越した米国人はイラク開戦に懸念を示していました。しかし権力にある人は誰もその懸念に耳を貸そうとしませんでした。それどころかイラク開戦に消極的な人達を、テロに対して弱腰であると非難し、愛国心に欠けている人物であるかのように扱いました。現在のイラクは大変な状態です。そしてさらにより多くの軍を送ることによって状況を悪化させているのです。私個人の意見ではブッシュ大統領は即座に辞任すべきですが、まだ2年近く任期があります。ブッシュ大統領は広島やダカウへ行ったことがないと思います。もし行ったことがあるならきっと今とは違った指導者になっていたと思います。ブッシュ大統領の後も大変な仕ことが待っているものと思われます。多くの国とも和解する必要があるでしょう。

広島は和解について多くを体験してきました。歴史上最大の一般人殺害が行われた場所の1つですが、報復を考えるのではなく和解を模索し続けてきました。皆様、広島の方々は平和の町を築かれました。多くのイベントが開かれ、和解と非暴力促進のためのプログラムを主催されています。平和が広島の代名詞になっています。

昨年の11月私はこれらのエベントの1つに参加しました。「広島平和サミット」です。皆様のなかにもこのサミットについて聞かれたことがあると思います。また実際参加された方もおられるかもしれません。3人のノーベル平和賞受賞者を囲んで会合が開かれました。チベットのダライラマ、南アフリカの大主教デズモンド・ツツ、北アイルランドベルファーストのベテイ・ウイリアムズ女史です。

ダライラマはチベットへの中国の占領に対する非暴力の抵抗に対してノーベル平和賞を受賞しました。人類すべての真剣な努力に対する思いやりの気持ちをもつことの重要性を語られました。ツツ大主教は南アフリカのアパルトヘイト政府への抵抗として、非暴力を貫いた功績でノーベル平和賞を受賞しました。和解について語られました。アパルトヘイト終焉後、和解委員会を立ち上げ白人、黒人間の流血惨ことを回避することに努められました。

ベテイ・ウイリアムズ女史は1970年代に北アイルランド平和運動を始めたことによりノーベル平和賞を受賞しました。カトリックとプロテスタントが共に学べる最初の小学校をベルファーストに建てました。質疑応答セッションでベテイ・ウイリアムズ女史は広島が平和のためにおこなったことの重要性、また大本も深く関わる宗際対話の重要性にも言及したのでした。

質問は次のようなものでした。「1人の人間が世界を変える為に何が出来るでしょうか?」ベテイ・ウイリアムズ女史は答えます。「何かを始めてください。どんなことでも始めてください。どんな小さいことでも。愛と思いやりを忘れずに!平和の為にはどんな行動も小さすぎることはありません。もしあなたが1人の人間によい影響を与えることができるなら、それは本当に価値ある行動なのです」

彼女のこの言葉を聞いて大本のことを考えました。宗際対話の努力の中でたとえ1人の人でも、その人の琴線に触れることができたらそれは価値ある行動だと何人かの大本信徒から聞きました。これは美しい考えではないでしょうか。大本の活動は実際に1人ではなく多くの人に影響を与えていることをベテイ・ウイリアムズ女史も同意されると思われます。少しく例を挙げてみましょう。

2002年京都で大本主催の第2回祈りとフォーラムにおいて様々な宗派の宗教指導者が共に祈りを捧げる場面に立ち会うことができました。数日後フォーラムに参加した宗際指導者の多くが開祖大祭に参拝されました。またみろく殿での万国慰霊祭にも祈りを捧げました。

私は海外で大本の方々が他宗の指導者と共に祈りを捧げる場面を目にしてきました。昨年の春ワシントンD.C.での聖エジディオ共同体主催の平和会議に参加する機会がありました。大本の代表者はユダヤ、イスラム、カトリック、ギリシャ正教、またプロテスタントの宗教指導者と腕を組みながらジョージタウンの通りを行進されていました。まさに宗際対話の連帯を示す光景だと思いました。

日本国内でも大本が信じる平和関連のプロジェクトに他の宗教指導者と協力する姿を見ました。死刑廃止、世界連邦などすぐに2つのプロジェクトが頭に浮かんできます。大本の大祭にカトリック、プロテスタント、ユダヤ、イスラムをはじめ、多くの宗際指導者を招いています。最近は中東専門家や中東からの政治的指導者、特にイスラエル、ヨルダン、エジプトの各駐日全権大使またパレスチナ自治政府の駐日代表等も大祭に招待されています。

こうした努力の陰には1人の大本指導者の力があります。故廣瀬静水師は生涯を宗際活動に捧げられました。師は様々な宗教の人々が共に祈り対話を続ける必要性を固く信じておられたと思います。本の執筆のため廣瀬師にインタビューした時、1979年、1984年、シナイ山での2度の合同礼拝に大本代表として参加されたことを熱く語られました。廣瀬師は中東和平が世界の平和の鍵を握ることを認識し、中東からの外交官を本部に招き、対話の機会を持たれました。大本が中東和平に貢献できると考えていたからです。

私がエルサレムに留学していた1971年から1972年は激動のイスラエル現代史のなかで最も平和な時期でした。10年後、私はデトロイトフリープレスの外信部編集員で国際ニュース記ことの責任者になりました。デトロイトはかなりのユダヤ人口を抱え多数のアラブ移民が住んでいます。そのような関係でデトロイトフリープレスは中東関連記ことには細心の注意を払っていました。定期的にレポーターや写真家を送っていました。私はとりわけイスラエル・パレスチナ問題を読者に理解してもらおうと特別報告記ことを企画し、その編集と構成等の指揮をとっていました。

このような中東との関わりから、イスラエルとパレスチナの若者を綾部へ招待するという話を聞いた時は本当に興奮しました。このプロジェクトには廣瀬師も心より賛同されていたようです。私自身もこのプロジェクトに関われたことを本当に嬉しく思いました。

2003年綾部プロジェクトは綾部市の招きでイスラエル、パレスチナの10代の若者それぞれ7名が1週間日本で一緒に過ごしました。共に話し、遊び、和解したのです。

彼らは家族の誰かを紛争で亡くしていました。綾部プロジェクトは綾部市民それぞれの寄付で行われました。大本は財政的な援助もしました。しかしなによりも通訳を含め人的援助において最大の貢献をしたと思われます。若者達は綾部でホームスティを体験しました。また伝統芸術も学び、自分たちの伝統の歌も綾部市民に披露しました。自分たちがどのように平和に暮らせていけるのかといった微妙な問題について自発的かつ市民レベルの議論も行われました。

綾部に続いて2004年岡山、2005年徳島で行われ、2006年は亀岡の予定でしたがイスラエル・レバノン戦争でキャンセルになりました。私は「素顔の大本」に綾部プロジェクトについて一つの章を当てました。そのなかで発表した2人の参加者のコメントをここで披露します。

日本滞在の最後の日、1人のパレスチナの若者が言いました。「自分はずっとイスラエル人を憎んできました。しかし気持ちが変わりました。イスラエルとパレスチナの平和促進にはお互いの理解が必要であると思いました。それはお互いの若者から始めなければならないのです。私達自身が平和にならなくてはならないのです」

彼らが帰国した後私はイスラエルからの参加者の一人と電話で話しました。「このプロジェクトに参加して最も大きな衝撃は自分たちと同じ年代のパレスチナ人を知ったことです。彼らは私達となんら変わらない普通の若者でした」と彼女は電話越しに語ってくれました。

正直に言ってこのプロジェクトが参加した若者にどれだけの効果や影響を与えたか、まだその答えは返ってきません。それは肯定的な波及効果として中東の将来の家族、友人に良き型として表れることでしょう。綾部プロジェクトは平和に対して力強い効果を与える大本の取り組みを端的に表しています。

大本は悲劇と勝利が組み合わされた色彩豊かな歴史をもっています。

大本の霊的向上を目的とした芸術に対する取り組みはとても重要だと思います。

大本の祭典はカラフルで深い感動を呼び起こします。しかし大本が行なっている宗際活動は、つまり平和と敬愛のメッセージは混とんとした21世紀の世界には不可欠です。現在の混とんとした世界において、大本信徒は宗教こそは力であると信じています。たとえ一度に1人の人しか改心できないにしても。大本が現在の方向を間違わずに進まれることを心より望みます。それは高貴な使命であると考えます。

多くの理由で私はここで大きな声で宣言することができます。私は大本の友人であることを誇りにしています。

キョウハ ワタシノ ハナシヲ オキキクダサリ、アリガトウゴザイマシタ。

(2007年3月18日)

広島の爆心地近くのビルの残骸=原爆ドーム
数千人の被爆者がこの川に飛び込み、おぼれ死んだ
広島平和公園の原爆供養塔前で祈りを捧げる大本信徒
広島平和公園の原爆死没者慰霊碑と平和の灯
慰霊碑の後ろにある平和記念資料館
平和公園の桜の花(2000年春)
家族連れであふれる平和公園(2000年春)
平和公園にある「平和の鐘」をつく子供たち
精いっぱいの力で鐘をつく
爆心地付近の橋からのながめ
長崎で被爆して生き残った鬼塚秋子さん
長崎の爆心地近くに置かれている「平和の母子像」レリーフ
「平和の母子像」の詳細
被爆の日時が記された爆心地近くの銅像(長崎市出身の富永直樹氏の制作によるもので、21世紀にはばたく日本の未来を、偉大なる母の慈悲心と温かな母の胸で眠る傷心の子供の姿で表現している。被爆50周年の記念像)
長崎の爆心地
原爆落下中心碑(この地の上空500メートルで炸裂した原爆は、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪った)
爆風で破壊されたビルの残骸
綾部市民らがイスラエル・パレスチナから来日した子供たちを歓迎する(2003年)
綾部プロジェクトは大本の多くの平和活動の一環として行われた
イスラエルとパレスチナの子供たち数人ずつが日本で1週間をともに過ごした
私が見た大本
日本語ホームページへ戻る
Ĉiuj rajtoj rezervitaj de OOMOTO.
©2010 OOMOTO. All rights reserved.