
今日のことば アーカイブ(001~020)
今日のことば 001
世の中をよくする、たった一つのものがある。
それは“好意”である。
そうだ、すべてのものに、心からの好意を持たなければならない。
善意からする偽悪は、悪意からする偽善に、どれほどまさるか知れない。
私のあやぶむところは、はたして、これが真の神意かどうかということだけだ。
おおそうだ、愛は無限だ。
他人にやさしい言葉をあたえるために、わたしの言葉は貧弱にはならない。他人に好意を寄せるために、わたしの好意は減るものではない。
たがいに争い、たがいに憎み、たがいに恨み合っていて、この世が、いつのときか平和になろう。
目に見える神は人間だ。
人間自身の努力によらないで、この世に幸福がどこからこよう。
今日のことば 002
真すなわち美であり、美すなわち愛であり、愛すなわち善である。この四つは一貫している。真でないものは美しくなく、美しくないものは愛がなく、愛がなければ善でないのである。
美は真の発露であり、善は愛の発露である。そして、愛善は真美の発露である。
ゆえに、ある意味においては、真すなわちすべてであるといいうる。
今日のことば 003
何ごとも実地にやりつつ理論を考え、理論を考えつつ実地を行わなければならない。この一方のみでは畳の上の水練であり、昔から今までいっこうに進歩しないクモの巣である。
進は新である。悪いと気づいたら、瞬時の後にもこれを棄てなければうそである。よりよいと信じたなら、瞬時の後にも他へ移らなければうそである。今までの世の中には、悪いと知りつつこれを棄てることができず、よりよいと信じつつ他へ転じることのできない人たちが多かった。
これからは、進転自由自在な真理の追究者の数が増さねばならない。
今日のことば 004
個々をよくしなければ全体がよくならない。
現界においては人間が神である。お互い同士が懐かしみ合い、敬し合い、愛し合わずして、ただ単に、天なる神を祈ってばかりいたところでなんにもならない。
自分をよくせずして他人をよくすることはできないとともに、他人をよくせずして自分をよくすることはできない。
世界一家の日がこなくては、真の幸福はこの地上にこない。惟神の精神が世界をリードするときが近づいたことをしみじみと感じる。
今日のことば 005
「わがものと思えば軽し傘の雪」で、大きい意味でいっさいは自分のものだと思えば、どんなものにも好意がもてる。なんとかして、よりよくしてやりたいという気になれる。本気で世話ができ、面倒がみてやれる。
自分のものという意味は、自分のもとに属すると限ったわけではない。自分の上下、左右、前後、いずれかにあって、自分ときり離すことができないものという意味である。この意味において、いっさいが親子であり、同胞であり、ーー自分のものである。
今日のことば 006
どんなつらい環境にあっても、これを切りぬけようと努力をつづけるところに人生はある。
いたずらに他をうらみ、世を呪ってはならない。
何かに向かって働くのが人生だ。
貧窮になってみて、はじめて、貧乏のどれほど辛いものであるかがわかる。病気になってみてはじめて、病人の気持ちが了解できる。死んでみて、はじめて、死というものが理解できる。
宇宙は大学であり、真理はどぶの中にもころがっている。
たえず何かを求めて、あがき苦しみ、もがき呻いて、そして、ついに何かを悟ることができたら、人生は成功だ。
悟っただけの世界へ、死後は、はこばれるのだ。
今日のことば 007
人生はお互いに思い思われて、なつかしく、ありがたく感じ合うところに本当の幸福がある。
とにかく、人間は真にあいゆるした一人を欲しているものだ。その一人がないということは寂しいことに違いない。
ある人はいう。
「自己が愛している者のため、あるいは、愛されたいと思う者のために働くことほど満足はない」と。
そうであろう。またいう、
「心から、自己の成功をよろこんでくれる者を持たず、また、喜ばしたいと思う者を持たないことほど、寂しく、たよりないことはない。こうした張り合いのない、気のぬけたような生を送っている自分を了解してください」と。
私は、よく、その人の心持ちがわかる。
与えようとする心はあっても、受けようとする他の心がなかったら、ここに授受の関係はおこらない。
甲は乙を想っても、乙が甲を想わなかったら、ここに完全な愛の実はむすばない。
対象によって保たれている天地である。その対象が、ますます完全に、その役目を果たすことによってのみ、この世はますます、より幸福になってくるのだ。
殿さまも家来も、ともに立派であることを必要とするのである。
今日のことば 008
ある与えられた道筋より外へは出られないのである。しかし、その道筋というのは、けっして、最初から一定不変の絶対的なものではなく、その方向は絶対的であっても、その長短や道幅は、人間の努力ひとつで、どんなにでもなるものである。
どうしても、情を主とし、親しみを先にしてからでなくては、しっくりとゆくものではない。
頭の生活は行きづまる。腹の生活でなくてはならない。
今日のことば 009
自分というものを浄化し、向上させるうえにおいては、つねに省みて、至公至平に自分というものを見つめることを怠ってはならない。そして、角をとるよう、欠点や性癖をなおすようにと注意しなければならない。そして、われとわが心の動き方(行動に対する動機)をよく見つめ、審判して、公平無私でなくてはならない。
この場合、良心の許容しないことをしたならば、それだけ罪になる。
今日のことば 010
人間は絶えず何かを作り出しておらねばならない。
なんでもないひっこみ思案ははなはだよくない。能うかぎり、頭なり手足なりを活動させて、つねに何かを得ようと努めるところに真の生活があるのだ。
いつまでも同一境遇に執着して、それから一歩も外へ出ることのできないような意気地なしでは困ったものである。
中には、心中では、これではならない、もう少し何とかしなければならないと焦慮しておりながら、決断力が足らないために、いつまでもその境遇にあまんじている人々もずいぶん多い。むろん、時と場合によって、ここのところは敢然と思い切るべき時か、あるいは、今は忍耐すべき時であるかということは、まず考えねばならない。
今日のことば 011
手数をかけるほど愛は生じるものである。親が子を育てるにしても、なかなか一通りや二通りの苦労ではないが、苦労すればするほどかわいさがましてくるのである。
すべて面倒や手数をいとうていては、何ひとつ真に自分のものにすることはできるものではない。
ある団体のためとか、ある会のためとかいう場合でも、自分が身を入れる度が大ならば大なるほど、それらに対してより強い愛が生じてくる。
要するに、身を入れただけ、面倒をみてやっただけしか自分がひろがらないのである。
仕事に伴わなければ、真の悟りはひらけない。
だから人間は、少々は無理からでも実地に仕事をするに限る。
ただし、いくら仕事をしても、ただ単に、機械的にしているのではだめだ。ちょっとのことをしても、普遍的な呼吸をつかむ工夫をしなければいけない。
今日のことば 012
仕事をすれば損がいくように思う人があるが、これはたいへんな間違いである。その気で仕事をすれば、しただけは、霊的に自分の所得となっているのである。その仕事をおぼえるということだけでも、たしかに、それだけ、その人に力がついたわけで、まして、その仕事を一つの模型として会得する霊的な所得というものは、実に偉大なものである。人間はどうせ、神から見れば不完全きわまるものであるから、どんな人も謙虚な気持ちで、少しでもより多くの事柄を会得して力をつけ、神の僕としてのつとめをつくすように心がけねばならない。
この理がよくわからない人は、なるべく仕事を避けよう、楽にいようとしたがるものだが、神からの内流(神から流れてくる知・情・意)は何か仕事をしている場合でなくては、確実にその人の全身に流れ入るものではない。歩かずに行こう、遊んでいて賢くなろうとするのは言語道断である。
何事にでも、それぞれの興味はあるものだ。だから、その仕事にとらわれ縛られることなく、広い大きい心で、その仕事を自己に従属させて、その中に自己一流の境地、興味を見いだすように努めることがもっとも肝要である。
今日のことば 013
無理からでもなせ 遮二無二進め
なんでもかんでも音を立てよ
思いに思い 言いに言い なしになせよ
消極は地獄であり
積極は極楽である
瞬時も休むことなく宇宙はまわる
何ごとでもよい 思いたったことを
全力をあげて 全身をかたむけて
全身の全細胞にねじはち巻きさせて
全身の全血管に波立たせて
見かけはどんないやしいことでもよい
見かけは遊戯のように見えることでもよい
おもしろく愉快に興味にみちて
なしさえすれば真の生活だ
理屈はどうでもよい
他人はどう解しようがままだ
したいと思うことを
せねばならぬと決意したことを
いま目のまえに出てきたことを
ドンドンなせよ
つぎつぎになせよ
遮二無二なせよ
なせよなせよ なすのが生活だ
今日のことば 014
多く観 よく観 多く聞き よく聞き
多くかぎ よくかぎ 多く味わい よく味わい
多く触れ よく触れ 多く思い よく思い
もって 悟るよりほかに手はない。
自分の手で自分の口にはこび、自分の胃腸で消化しなければ自分のものにはならない。
自分が発見し、自分が肯定し、自分が進まねば自分の途にはならない。
今日のことば 015
見よう聞こうとあせらなくても、その位置にさえ進めば、自然に見え、自然に聞こえてくるのだ。世の人々は、適当な位置にわが身を進めるという先決問題を忘れて、いたずらに、見よう聞こうとあせっているのである。
では、その位置に身を進めるということは、どういうことであるかというと、一口にいえば、真に自己をいつわらない生活をするように努力し、精進したらよいのである。
今日のことば 016
まず、純潔な自己そのものに帰ろうとすれば、どうしても、内心の苦闘をへたうえでなくてはならない。
神からあたえられている直霊のみたま(良心)に省みて、よく、その場その場の善悪を知って、決意のままに進むようにしなければならない。
人はだれでも、自己独特の使命を天から受けているのであるから、とにかく、心の底から、したくてしたくてたまらないことはどしどしとやるべきであり、また、やらすべきである。そしてまた、途中でこれはいかんと気づいたならば、躊躇なく道をほかへ変えたらよい。いつまでも小さいことに囚われて、くよくよしているようでは、みずから、そこに一種の牢獄を作っているようなものであるから、成否に関せず、人はつねに興味中心、内的要求を次からつぎへと満足させるように努力するのが、もっとも神意にかなった人生である。
この理屈はたいていの人たちが知ってはいるが、八、九分までが、現世的、一時的利欲にのみ迷い、第二義、第三義の生活に堕し、真の自己を発展させずに、とんでもない方角違いの仕事に汗水たらしている状態である。
今日のことば 017
省みることを怠る人ほど、始末におえぬものはない。省みなければ悟ることがないから、したがって進境がない。
“なせ、省みよ、悟れ”
これが、霊魂を進歩させる上にとっての唯一のモットーだ。
精神上の変化は、かならず、物質上の変化を伴う。
これは微細なことにもおよぶ。
間断なく望み
間断なく為し
間断なく省み
間断なく悟れ!
そしてまた新しく望み、為し、省み、悟れ!
かくて極まりなからんとき
われらは向上して極まりなし
社会の向上せざるは
省みさとること少なく
同一の愚事に執着するによる
今日のことば 018
この世界は、自分の器量で、広く大きく作ろうと思えば、いくらでも広大に開拓できるものであって、固定的善悪観にとらわれている間は、いつまでたっても、よりいっそうの開拓ということはなしに終わる。これは明らかに、人間自身の罪である。
この世に、善というのは一般人類のためになる行ないであり、悪とは一人の利となる行ないである。そのほかには、けっして善悪観はなりたたない。
たとえそれが、一国の不利益になっても、真に全世界、全人類の幸福になることであるならば、これは明らかに善である。また、たとえそれが、現代人の考えにとって不利益であっても、真に永久の幸福になることであるならば、これまた明らかに善である。
今日のことば 019
内面的な人ほどその行ないは、わけがわからなく他人からは見え、外面的な人ほどその行ないは、いかにも道理至極のように見えがちなものである。
ちょっと断わっておくが、活動の量が、より大きいものほど偉いといっても、それは外面的、一時的にみてのことではない。
たとえば、機械は、いかにもよく働くが、人間よりは劣っている。キリストは三十三歳で没したが、その活動量は実に偉大である。
ただ単に、動きまわるのが偉いのではけっしてない。他によい影響をあたえたものほど、よい活動をしたといわねばならない。
今日のことば 020
自分で自分の悪い気持ちと戦うということは必要である。こうした難関を一つ突破するごとに、少しずつ、一般的邪悪をも征服する力がついてくるのである。
つねに自分に負けている人は、いつまでたっても霊的向上をなし得ない人である。
外的にも内的にも、つねに自分に楽な仕事ばかりをしている人は緊張を欠くから、役に立つ人にはなりにくいものである。
何をしても、興味をもてば幸福だ。




















