十曜の紋WEB用2.psd宗教法人大本headnametype.png

I トップページ I グローバル I お問合せ I
印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |


天恩郷 京都府亀岡市

万祥殿 (ばんしょうでん)

万祥殿 (ばんしょうでん)

banshoden2.jpg

亀岡市天恩郷における礼拝殿。「おほもとすめおほみかみ」をまつり、天恩郷の至聖所・月宮山を拝する。

昭和33年(1958)8月7日に完成。

万祥殿の特徴は、殿内に切り妻造りの能舞台が造られ、建物の北側に茶室「万祥軒」が隣接し、大本の教風である「宗教と芸術の一致」の教えが具現していることである。

能舞台では毎年、瑞生大祭前夜の8月6日に「大本歌祭」が、5月4日には長生殿能舞台と交互に「大本みろく能」が行われる。また万祥軒では毎月6日、19日、月末日に月釜がかけられ、薄茶接待を行い、大勢の人々が日本伝統文化に親しんでいる。

■万祥殿での主な祭典・行事

  • 瑞生大祭(8月7日)
  • 新年祭(1月1日)
  • 教主生誕祭(5月3日)
  • 大本みろく能(隔年の5月4日)
  • 大本歌祭(8月6日)
  • 天恩郷月次祭(1月3日、3・4・6・7・9・10・12月の第1日曜日)

教歌碑・懐古歌碑 (きょうかひ・かいこかひ)

教歌碑・懐古歌碑 (きょうかひ・かいこかひ)

kyokahi.gif

亀岡・天恩郷の黒門を入り、万祥殿へ向かう真奈井通り北側の松林の中に、3基の歌碑が立ち並んでいる。中央が教歌碑、左右が懐古歌碑と言い、いずれも出口王仁三郎教祖の短歌が刻まれている。

3基は同時期に建立されたものではなく、最初に中央の教歌碑が、昭和37年(1962)8月、開教70年を記念して建てられた。

「鶴山に妻は錦の機(はた)を織り 吾亀岡に万代(よろずよ)を教ふ」と王仁三郎の筆跡が刻まれている。

左右の歌碑は昭和46年(1971)8月、出口王仁三郎生誕100年を記念して建立された。向かって右側には、

「いとけなき頃は雲間に天守閣 白壁はへしを懐かしみけり」

「旧城址落ちたる瓦の片あつめ 城のかたちを造りて遊びぬ」

左側には、

「玉の井の池に湧き立つ真清水は みつの三魂の命なりけり」

「寝ながらに月を仰ぎしあばら家の むかしの住居吾眼に新し」

木の花桜 (このはなさくら)

木の花桜 (このはなさくら)

konosakura.gif

亀岡市天恩郷・花明山植物園の木の花桜は、園内の中ノ島西南端に生育している。樹齢約250年で、昭和28年(1953)出口直日三代教主によって発見、命名された。

木の花桜は、ヤマザクラ(山桜)の変種で、花弁が60枚前後もあり、一花に雌しべが2本ついているのが特徴。昭和29年、初代花明山植物園長の竹内敬氏と、バラ科の世界的権威・小泉源一博士によって、学会に発表された。

毎年、見事な花を咲かせる天恩郷・木の花平の桜は、親木から取木して繁殖させたもの。梅松苑・長生殿北側の木の花桜は、平成3年(1991)、梅松館の二世から取木したもので、木の花桜三世として生長している。

天恩郷の石垣 (てんおんきょうのいしがき)

天恩郷の石垣 (てんおんきょうのいしがき)

isigaki.jpg

石を割る石工の槌の音つよく 胸にこたゆるタベの城あと

出口王仁三郎教祖が、次々に壊されていく亀山城を惜しんだ青年時代を懐古して、詠んだ歌である。

明治5年(1872)、太政官布告による城郭存廃調査の結果、亀山城は廃城に決定。以後、多くの遺構は売り払われ、石垣も、現・山陰本線の線路敷設に使われるなど、荒廃の一途をたどっていった。大正8年(1919)に王仁三郎が城跡を購入したときには、瓦礫や廃材の間から雑木・雑草が生い茂り、城跡の影さえみることもできない惨状となっていた。

購入の翌年、王仁三郎は荒地の整備を始め、多くの信徒が献労に汗を流した。王仁三郎の指示で瓦礫を取り除いていくと、三段ほどの石垣の基礎が現れた。これをもとに、散乱した石を掘り起こして積み上げていき、石垣が完成。

吾がのぞみやうやくたちて亀山の 城址は高くよみがへりけり

青年時代の深い思いが現実のものとなったが、昭和10年(1935)の第二次大本事件で、石垣は崩され、もとの荒れ地になった。事件後、信徒の献労によって、再び石が一つずつ組まれ、現在の石垣が完成した。

教学碑 (きょうがくひ)

教学碑 (きょうがくひ)

kyogakuhi.gif

天恩郷大公孫樹(おおいちょう)の南下に教学碑はたつ。昭和28年(1953)4月、開教60周年記念事業の一環として建碑された。縦2.4メートル、横5.4メートル、厚さ45センチ、重さ27.4トンもの仙台石には、大本の教えの根本となる教旨と、大本教義の根幹である三大学則が、出口王仁三郎教祖の筆で刻まれている。

神人一致
神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の主体なり、霊体合一して茲に無限の神徳を発揮す
学則
神の黙示は即吾俯仰(ふぎょう)観察する宇宙の霊力体の三大を以てす一、天地の真象を観察して真神の体を思考すべし一、万有の運化の亳差(ごうさ)無きを視て真神の力を思考すべし一、活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし
以上の活経典あり、真神の真神たる故由を知る、何ぞ人為の書巻を学習するを要せむや、唯不変不易たる真鑑実理あるのみ
右神諦文は出口王仁三郎明治三十一年如月九日高熊山修行の砌(みぎり)案出したる教義の一部分なり
昭和十年九月八日 王仁識之

最初の教学碑は昭和10年(1935)、建碑するばかりになっていた矢先、第二次大本事件で完成をみることなく壊された。事件後、京都市内の石材業者がその碑文の石ずりを保存していたため、当初のままの建立が実現した。

教学碑のそばには、「清潔主義、楽天主義、進展主義、統一主義」と刻まれた大本四大主義碑もたっている。

月宮宝座 (げっきゅうほうざ)

月宮宝座 (げっきゅうほうざ)

houza.gif

天恩郷の高台に、至聖所・月宮宝座はある。第二次大本事件が起きるまでは、十字の形の礎石に月宮殿が建っていた。

この月宮殿は昭和3年(1928)に完成。同殿は出口王仁三郎教祖が高熊山修行(明治31年・1898)中に見せられた天界の宮殿を地上に模写したもの。約9000個にのぼる石を使用した総石造りで、日本建築史上に類例はない。しかも、古代アジアの伝統絵画を参考にしたというその様相は独創的で、まるで竜宮城を見るようだった。

月宮殿下には、全国各地から寄せられた約1300個の「国魂石」が、信徒の手作業で積み上げられた。中には重さ数十トンになるものもあった。

第二次事件で、月宮殿は破壊されるが、警保局保安課の記録には「数十発のダイナマイトを一時に爆発させても局部的損傷にしかならず、異常の苦心を重ねた」とある。完全に破壊するまでに21日を費やし、使用したダイナマイトも実に1500余発を数えた。

大本新発足後、出口王仁三郎教祖の意志に基づき、散乱した国魂石を積み上げ、昭和24年(1949)、現在の月宮宝座が完成。頂にある「天拝石」は重さは約7.5トンにもなる。

平成4年(1992)12月8日からは、綾部・梅松苑の本宮山と同様、至聖所として、禁足の地となった。

朝陽舘 (ちょうようかん)

朝陽舘 (ちょうようかん)

choyokan.gif

天恩郷の教主公館として、昭和31年(1956)8月に完成。現在もここで教主が神務をとり、信徒との面会が行われる。

神前には「大本皇大御神(おほもとすめおほみかみ)」とともに、教御祖の神霊がまつられ、毎月15日に「教御祖月次祭」が執行される。

茶室 泰安居 (たいあんきょ)

茶室 泰安居 (たいあんきょ)

taiankyo.gif

月宮宝座の西側に、茶室・泰安居がある。第二次大本事件前は、霊界物語「天祥地瑞」のご口述が行われた建物の一つ「高天閣」が建っていた場所。

泰安居は開教80年事業の一環として、また出口直日三代教主の古希の祝いに工事着工。昭和50年(1975〉2月に総完成した。その名が示すとおり、世の泰平と、人々の安泰の願いが込められている。

約300坪(約910平方メートル)の敷地内に、本席の泰安居(四畳半)があり、それに隣接して聴雪居と名付けられた六畳の間、鳥声居という二畳台目(茶室)がある。離れに袴付の洗月亭、腰掛待合のある花晨亭、松風軒と、「花鳥風月」を表した名称の茶室がある。これらを総称して泰安居と呼ぶ。

周辺の土塀は、国宝・法隆寺土塀構造木目出し仕上げで、建物の格調を一層高めている。

月の輪台 (つきのわだい)

月の輪台 (つきのわだい)

tsukiwa.gif

天恩郷・瑞祥館前に、満月を型取って円形に造られた「月の輪台」がある。祭神は瑞の御霊大神(みづのみたまのおほかみ)である。

第二次大本事件で破壊される以前にも、現在の場所に円形の月の輪台があった。第一次大本事件解決後の大正14年(1925)、天恩郷の整備を本格的に始めた出口王仁三郎教祖が、最初に手掛けた聖所である。

第二次事件が解決し、天恩郷の再建が始まると、出口王仁三郎はやはり月の輪台の築造から始めた。自ら、連日、中矢田農園から現場に通い、工事の指揮に当たった。昭和21年(1946)8月25日、現在の月の輪台が完成。王仁三郎は月の輪台の完成を見届けたかのように、完成翌日から病床に伏し、昭和23年(1948)1月19日昇天。同年の正月元旦に二代教主は、王仁三郎が伏している部屋から大きな月が昇り、月の輪台に入るという霊夢を見ている。このとき二代教主は、王仁三郎の昇天を覚悟したと伝えられる。

宣霊社 (せんれいしゃ)

宣霊社 (せんれいしゃ)

senreis.gif

月の輪台の南側に、宣霊社がある。第二次大本事件前は、大正15年(1926)に、月の輪台の西側に建てられていたが、事件で壊され、昭和27年(1952)3月、現在の位置に再建された。

流れ造りの銅板ぶきで、社殿には、出口なお開祖、出口王仁三郎教祖、出口すみ子二代教主、出口直日三代教主、出口日出麿三代教主補をはじめ、大本の道のために尽力した宣伝使のみたまがまつられている。

宣霊社では、毎月14日に宣霊合祀祭が、15日に宣霊社月次祭がそれぞれ執行される。また瑞生大祭翌日には、宣霊大祭が厳修される。

船岡山と二代教主歌碑 (ふなおかやまとにだいきょうしゅかひ)

船岡山と二代教主歌碑 (ふなおかやまとにだいきょうしゅかひ)

nidkahi.gif

ひのもとのくににうまれしかみのこよ よきたねお(を)まけのにもやまにも すみこ

このお歌は、出口すみ子二代教主が晩年に詠んだもの。

二代教主の筆による、この歌を刻んだ歌碑は、月の輪台の正面に、向かい合うようにしてたっている。

亀山城跡

亀山城跡

isigaki.jpg

■築城400余年 明智光秀の居城

JR亀岡駅から徒歩10分、小高い丘に石垣と壕を残す大本の聖地・天恩郷は、かつては明智光秀の居城であった亀山城跡でした。姿を今に残す壕と石垣の一部から、当時の姿をしのぶことができます。

丹波亀山城は別名を亀宝城、霞城ともいい、層塔型の5層の天守閣と3重の堀をめぐらしたその偉容は、亀山5万石の規模をはるかに越えた全丹波29万石にも相当する城塞でした。それは、京への山陰道の喉首に位置し、古くから丹波の政治、経済、文化の中核でしたが、ことに戦国時代以降は、丹波攻略平定の軍事上、交通上の要衝地だったからでした。

■五重五階の天守

最初の築城は、1578(天正6)年ごろと推定されています。織田信長の命を受けた明智光秀が丹波平定の軍事的拠点とし、築城しました。1582(天正10)年6月1日、中国の毛利氏攻めを命じられた光秀は、1万3千の軍勢でここ亀山城を出発。老ノ坂を越え、桂川を渡った後「敵は本能寺にあり」と触れて、翌日未明に本能寺の信長を攻め、俗にいう「三日天下」を手にしました。亀山城は「本能寺の変の裏舞台」ともいわれています。

その後、豊臣秀吉の支配を経て、江戸時代初期に徳川家康が号令した「天下普請」によって、当代一の築城の名手藤堂高虎が1610(慶長15)年、日本初の層塔型、5重5階の天守を献上。本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸や、内堀、外堀、惣堀の三重堀を有し、城下町と一体化した近代城郭として完成されたといわれています。その後は、松平家を中心に常に譜代大名が頻繁に交替し、幕末を迎えます。

■石垣に当時の面影

1878(明治11)年、政府の方針で廃城処分されることになり天守も解体され、建物の一部は払い下げられました。以降、土地も建物も転売を繰り返される中、「見る影もなく、わずかに内濠池の残れると石垣の破れ崩れたるとによりて、その城址たるを知るのみ」と記されるほど、荒れ果てていきました。

1919(大正8)年、本丸、二の丸付近を大本(出口王仁三郎聖師)が入手。城内に残った石を掘り起こし、積み直し整備しました。翌年には大道場を開設し、建造物を建て、やがて「天恩郷」と命名しました。1935(昭和10)年の「第二次大本事件」での破壊を経て復興し、現在に至っています。

天守跡の石垣の一部に、築城、整備された時代のものが残っています。

「お祓い」を受けていただくと、どなたでも見学できます。受付にお申し出下さい。

ただし、天守跡付近は、大本の聖地・天恩郷の至誠所として月宮宝座を築き、禁足地とし、本殿から遙拝いたしております。

■明智光秀について

出口王仁三郎は光秀について、次のように興味深いことを述べています。

明智光秀は、清和源氏の末裔なる。六孫王経基の子・多田満仲の嫡子、源の頼光七世の孫に伊賀守光基あり。その子、光衡は、源頼朝より美濃の地を賜り、土岐美濃守と称した。その五世の孫、伯耆守頼清の二子・頼兼の七世の孫・重兵衛の尉光継が、光秀の祖父。光秀は光綱(美濃国可児郡明智の城主‐明智下野守)の一子なり。父が早世し光秀は尚幼弱なため、光綱の弟兵庫助光康(後に宗宿入道となった明智左馬之助光春)が準養子として明智を相続し、光秀はこの叔父に養われ成人した。母徳明院もまもなくこの世を去り、濃州明智蓮明寺に葬られる。

〈以上要約、以下中略〉

武田勝頼を亡ぼしてより、信長の心意行動共にやや驕慢の度を加え、僅少微細のことといえども立腹して功臣光秀を打擲し、家康の饗応にも再び之を罵倒し侮辱を与え、ついには近習森蘭丸をして、鉄扇にてその面を破らしめ、近江丹波五十四万石の領地を召し上げて、以って中国に放たんとするに至った。忍びに忍び耐えに耐えたる堪忍袋の緒が切れて、光秀にとりては、不本意極まる、本能寺の変起こる止むを得ざるに立ち至らしめたるも、この間深き理由のあらねばならぬ事であろうと思われる。後世挙って光秀を逆賊と呼び、大悪無道と罵る、果たして是とすべきものであろうか。

〈中略〉

以上の所論は信長対光秀の経緯について略述せしのみならず、光秀の黙し難き事情のありし事も、幾分か伺い知る事ができるであろうと思う。信長は光秀の反逆がなくとも、いずれ誰かの手によって亡ぼさるべき運命をもって居ったのであります。また光秀がその実母を質とせし如く論ずるも、光秀の母はその幼児にすでに世を去り、遺孤として叔父の光康に養われしものなる事は前叙の通りであって秀治に質とせしは叔父の妻で、即ち光春の母である。故に質を殺すの原因もまた前陳の如く、信長より出でたるものにして、光秀に取りては、実に気の毒千萬の冤罪である。どうか史上より光秀母を殺すの点だけは抹殺したいものであります。

〈後略〉

(「出口王仁三郎全集」第一巻第一章緒論から)