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出口なおの芸術

大本開祖と「お筆先」

出口なお        出口なお         天保7年〜大正7年(1837〜1918)本開祖。出口王仁三郎とともに大本教祖の一人。福知山(京都府)の桐村家に生まれ、嘉永6年(1853)綾部(同)の出口家の養女となる。大工の夫・政五郎の気ままな生活と病臥にもよく仕え、三男五女の母として、糸引き・紙屑買いで生計を立て、過酷な試練を生き抜く。

貧困の中にも、清く誠実に日々を送っていたが、数え年57歳(満55歳)を迎えた明治25年(1892)旧正月、2月3日の節分の夜、「艮の金神」という神が“帰神”し、大本は開教した。

生涯を神の啓示である「お筆先」のご用に仕え、その数は1万巻(半紙約20万枚)におよぶ。

その日常は静寂に香る白梅のごとく清らかで、きびしいなかにも慈愛にあふれ、「この世の亀鑑」とたたえられた。

つねに衣食を節して世の乏しき人々に思いをよせ、世の大難を小難に小難を無難にと、日夜に水ごりをとり、一身を捧げて万民和楽の「みろくの世」の実現と人類の平安を祈りつづけた。

「お筆先」

口なお刀自は平素はやさしく物静かであったが、帰神状態には、腹の底から太い凛とした男神の声を叫び、自身でその声を抑えることができなかった。

なお刀自が大声を出すことを恥じ、「艮(うしとら)の金神(こんじん)」に声を出さないように頼むと、神は「筆を持て」といい、文字の読み書きがまったくできなかったなお刀自が、筆を持つと自動書記的に紙に文字が記されていった。

大正7年(1918)11月に昇天するまでの27年間、昼夜を問わず書きつづけられたその数は、和綴じ本で1万巻、半紙にして約20万枚におよぶ。

これを大本では「お筆先」と呼び、のちに出口王仁三郎によって漢字があてられ、『大本神諭』(大本教典)として発表された。

出口なお刀自使用の机と「お筆先」和綴じ本
出口なお刀自使用の机と「お筆先」和綴じ本


「驚嘆の外ない筆跡」
――終始かわらない精神状態を保つ――


出口なお刀自の「お筆先出口なお刀自の「お筆先」出口なお刀自の「お筆先」 「うしとらのこんじ んわかひめぎめ(み)のみ ことで九(ぐ)ちのかみとあ らわれるわへんじよな んし(変性男子)のみたまがおもて になるにちこ(近う)なりたぞよ」「大本開祖出口なお刀自が明治25年、57歳の折、突如として神感状態になられ、まったくの自動書写のありさまで、霊感のおもむくままに書きつづけられたお筆先の書こそは、何ものにも左右されない純粋無垢な筆致で、まことに尊いものである。

筆の最初のあたりから、おわりまで、ほとんど等しい筆圧で、等しい幅で、しかも等しい速さをもって書かれている。

これは終始かわらぬ精神状態を保っていることをものがたり、とくに墨色までも、さまで変わりのない調子で、これが5枚、10枚ならいざ知らず、1万巻に及ぶというのであるから驚嘆の外はない。

これだけの太さをもつ文字は相当な力量がないと書きこなせるものではない。

一字一字を取り上げても、おおらかで、ゆたかで、どこにもトゲのない温さに満ちあふれており、書きなぐったのではなく、楽々としたためられ、その中に厳粛な格調の高さがうかがわれる」

【綾村坦園(書家)】