出口王仁三郎は精魂を傾けて茶盌(ちゃわん)をつくった。しかしその評価、真偽は誰にも分からなかった。少しでも褒める者がいれば、簡単にわけ与えた。

 その茶盌づくりを静かに見守りながら、ひそかに評価していた者がいた。それは王仁三郎の長女・直日(なおひ)(三代教主)であった。昭和20年当時、直日は亀岡を離れ、一家で竹田(現兵庫県朝来市和田山町竹田)に住み農業に従事していた。そして時々亀岡に帰り王仁三郎の元を訪ね、出来上がった茶盌を竹田に持ち帰った。

 「朝野(あさの)(直日の戸籍名)が来るとかなわん。わしのいちばん良い茶盌をもっていってしまいよる」と王仁三郎は言いながらも、焼き上がった中のよいものは「これは朝野のや」と言って別に大事にとっておいた。王仁三郎にとって直日は良き理解者であった。

 「もっとお茶に使える茶盌を作ってくれればよいものをと思いつつも、驚きというか、よく見ればみるほど、華麗なままにしっとりと眼に泌(し)みてくる美しさに、思わず吐息をもらしたほどです」と直日は後年述懐している。

 陶芸家の中で初めて王仁三郎の作品を認めたのは金重陶陽(かねしげとうよう)(備前焼作家・人間国宝)であった。

 茶室に案内された陶陽の前に、直日は約50点の王仁三郎がつくった茶盌をならべ、「いちばん良いものを1点差し上げます」と言った。

 その場面を陶陽は次のように話している。

 「こちらは焼き物作りですから、試験官の前に座らされたも同様です。4、5点別によけたが、どれと決まらない。その時、弟のかげになっていた一点がぱっと眼にとまった瞬間、ぴかりと脳底を打って腹の中を渦巻くようにそれが映じた」

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耀盌「天国二十八」
兵庫県の山村・竹田の茶室で三代教主・直日のもとから金重陶陽へと渡った。
直日と金重、二人の眼識が一致した楽茶盌の中でも秀作の一点




その茶盌に決めた瞬間、直日は「私の一番よいと思っていたのを取られまして、私も嬉(うれ)しいです」と素直に喜びを言葉にした。

 その茶盌は王仁三郎により「天国二十八」との銘が付されていた。 

 その後、この茶盌が機縁となり、新たな展開が生まれてきた。

(大本百二十年記念事業事務局主幹・田辺謙二)



当コンテンツは京都新聞で連載された
「大本」と芸術 開教120年に寄せて2011年11月17日朝刊分)からの転載です。


“芸術家、評論家に衝撃 星の輝き「耀盌」と命名
次週3月21日〔水〕に公開します







































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講 師  田辺謙二(大本120年史編纂室長)

たなべ けんじ:昭和29年岡山県生まれtanabekenji.jpg
昭和52年(1977)、大本梅松塾卒塾
大本編集部長、大本梅松塾長、
大本特派宣伝使を経て
現在は大本120年記念事業事務局主幹