谷川徹三(元法政大学総長、芸術院会員)に面と向かって、「弘法大師、良寛の書に比してもあなたの書は勝るとも劣らない」と言われて驚いたのは、出口すみ子(二代教主)自身であった。

 まさか自分の字を評価されるなど夢にも思っていなかったすみ子は、「私のような書をなんであんなに褒めてやろ」と家族に尋ねるほどであった。

 半信半疑ながらも谷川の言葉にすみ子は「自信がついたので、これからは力いっぱい書くで」と言いながら笑うのだった。

 すみ子の書を評価した人物がもう一人いる。北大路魯山人である。魯山人が芸術家として最初に認められたのは篆刻(てんこく)、書であり、最後の個展も書。書、絵画、陶芸と万能芸術家であったが、もっとも自負していたのは書であり、書にかけては何人も許さない高い識見を持っていた。

 昭和25年初冬、魯山人が岡山の金重陶陽(かねしげとうよう)(備前焼・人間国宝)の工房で客人として作陶を続けていた時のこと。後年、人間国宝の指定を拒否するなど、日本の美術界をも見下し、多くの作品を毒舌で切って捨てる自信家の魯山人。

 客人でありながら、その高い鼻は随所に見え、傲慢(ごうまん)ぶりが目についた。陶陽はいつも食事をする座敷にすみ子の書を掲げた。


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魯山人を驚かせた出口すみ子の書
棟方志功も「すみ子の字はいいですね。仮名がいい。
それは魯山人もかなわない、誰もかなわない」と絶賛している



「よ(世)がかわりてんかむるい(天下無類)のへた(下手)なじ(字)お(を)かく でぐちすみこ」

 いつものように入室し自席につき、床の間に視線が向いた。長い時間、穴のあくほど書に見入る魯山人の表情は、陶陽にとっても十分な手応えであった。

 魯山人は陶陽をせき立て昭和26年正月、すみ子のもとを訪ねるまでの熱の入れようだった。それから魯山人との親交が始まった。毒舌家が自宅の居室にすみ子の手紙を豪華に表具して掲げた。

 魯山人からの手紙には「斯(か)くの如(ごと)き芸術的能書が、今日もあることは不思議なことのようです。高野の大師も太閤さまもあったものでありません」と記されていた。


(大本百二十年記念事業事務局主幹・田辺謙二)



当コンテンツは京都新聞で連載された
「大本」と芸術 開教120年に寄せて2012年1月5日朝刊分)からの転載です。


“出口直日の作陶 亀岡・綾部に登り窯
次週4月11日〔水〕に公開します







































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講 師  田辺謙二(大本120年史編纂室長)

たなべ けんじ:昭和29年岡山県生まれtanabekenji.jpg
昭和52年(1977)、大本梅松塾卒塾
大本編集部長、大本梅松塾長、
大本特派宣伝使を経て
現在は大本120年記念事業事務局主幹