昭和23年1月、出口王仁三郎は「耀盌(ようわん)」と呼ばれる楽茶盌と書画多数を残し、天界へと旅立った。王仁三郎没後2年を経て、その遺志を継承し瑞月(ずいげつ)窯が、その翌年には本格的な登り窯が天恩郷(亀岡境内地)に築かれた。

 登り窯は京都東山五条坂・清水の名窯「柏山(はくざん)窯」を移したもので陶芸家・宇野三吾(さんご)寄贈によるものであった。

 王仁三郎が点じた「芸術の炎」は消えることなく妻・すみ子(二代教主)に、また長女・直日(三代教主)へと継承されていった。

 登り窯と作業場も整えられ「花明山(かめやま)窯芸道場」という名の作陶場が開設された。そこには石黒宗麿(むねまろ)(人間国宝)、金重陶陽(かねしげとうよう)(同)、金重素山(そざん)、河井寛次郎、宇野三吾、小山富士夫など日本の陶芸界を代表する作家が数多く集い作品を残した。

 直日に初めて陶芸の手ほどきをしたのは陶陽。手ひねりのぐい呑(の)み100点を造り、陶芸への本格的な歩みが始まった。初めて轆轤(ろくろ)の指導をしたのは石黒宗麿であった。

 直日は日本の伝統文化の実践を信徒に奨励し、自ら短歌、茶道、能楽、書道、絵画などいずれもかなりの研さんを重ねていた。

 窯芸道場が開設されてから、直日は時間を見つけてはそれまで未経験であった作陶に励んだ。陶陽の弟・素山が亀岡に移り住み、直日の指導に当たるなど本腰を入れての作陶となった。とはいえ直日にとっては、まったくの素人からの出発。指導者の言葉に素直に従い轆轤に向かい、心のままに茶盌、水指、花入れと作り続けた。

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作陶に励む直日
亀岡・天恩郷、綾部・梅松苑にも窯を築き、
生涯、茶陶を中心として計5,000点以上を残している


 当時、すでに父・王仁三郎の茶盌も、母・すみ子の書画も世の識者たちに認知され、芸術品として不動の位置を占めていた。その血を引く直日の作ったものに対する評価がいかなるものになるのか、直日自身にとっても、それは未知であった。

 というより、直日にとっては自らが作ったものがどう評価されるかなど、想念の内にはなかっただろう。ただ気持ちの向くままに作陶を楽しんでいたというのが実際のところだったろう。


(大本百二十年記念事業事務局主幹・田辺謙二)



当コンテンツは京都新聞で連載された
「大本」と芸術 開教120年に寄せて2012年1月12日朝刊分)からの転載です。


“出口直日の陶器、水墨画 「人陶一如」天稟の冴え
次週4月18日〔水〕に公開します







































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講 師  田辺謙二(大本120年史編纂室長)

たなべ けんじ:昭和29年岡山県生まれtanabekenji.jpg
昭和52年(1977)、大本梅松塾卒塾
大本編集部長、大本梅松塾長、
大本特派宣伝使を経て
現在は大本120年記念事業事務局主幹