出口王仁三郎を柱とする一門の作品について、国内での評価は時の経過とともに高まっていった。とはいえ、それは日本という限られた範囲での話。「美に国境はなく、美は世界共通のもの」との理念に基づき、海外で紹介できないものかと考えた。そしてヨーロッパに1人の大本本部職員を派遣。作品の写真を携え、美術関係者などと交渉を重ねた。

 それは夢想とも言える行為だった。アジアの東端・日本からやって来た「宗教関係者」が、海外でまったく無名の人物の作品を紹介したいというのである。しかし、王仁三郎の耀盌(ようわん)をはじめとする一門の作品への反応は、悪くなかった。

 パリのセルヌスキ美術館長・ヴァディム・エリセエフ氏は作品の写真を見て、「日本を訪れ現物を見た上で開催を決定したい」とまで言った。同館長は昭和45年当時、ヨーロッパ美術館長会議の議長を務めるなど当地における美術界の重鎮の1人。当時日本国内で開催されていたフランス美術の展覧会の多くは、同氏の手によってなされていた。

 昭和46年10月、エリセエフ館長は大本を訪れ、じかに作品を目にした。


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亀岡の大本本部を訪れ、出口一門の書画に見入る
セルヌスキ美術館のヴァディム・エリセエフ館長(右)=昭和46年10月



 「印刷物や写真で見た私のイメージは間違っていなかった。この展覧会をパリで開催すれば大変すばらしいことになる。ぜひ私の美術館でやらせてほしい」と。また「ヨーロッパでは、宗教といえば悲しみを与えるものという観念がある。しかし、この大本の作品のどれもが、よろこびで満ちあふれている。私は、宗教は人々の心によろこびを与えるものであることを、この作品展を通してヨーロッパの人々に知らしめたい」と熱く語った。

 書画を先に見た後、王仁三郎作の茶盌、耀盌を実見。耀盌を目にした氏は嘆声をあげ、驚きの眼差(まなざ)しでじっと眼を凝らした。それは展覧会開催への確信を得た瞬間でもあった。こうして作品群は芸術の都・パリに渡ることが決定した。


(大本百二十年記念事業事務局主幹・田辺謙二)



当コンテンツは京都新聞で連載された
「大本」と芸術 開教120年に寄せて2012年2月9日朝刊分)からの転載です。


“セルヌスキ美術館 パリ市民 耀盌にくぎづけ
次週5月16日〔水〕に公開します







































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講 師  田辺謙二(大本120年史編纂室長)

たなべ けんじ:昭和29年岡山県生まれtanabekenji.jpg
昭和52年(1977)、大本梅松塾卒塾
大本編集部長、大本梅松塾長、
大本特派宣伝使を経て
現在は大本120年記念事業事務局主幹