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「ご神意のまにまに」(平成3年9月23日、出口聖子四代教主)

  出典:教団機関誌「おほもと」平成3年10月号、天声社刊『教主御教示集—出口聖子四代教主』

 三代教主は、教団の将来を思い、長女直美氏を教嗣から外し、代わって三女の出口聖子四代教主を新
 たな教嗣として任命されました。三代教主は平成2年9月23日に昇天。その一年祭を期に、四代教主
 が教嗣変更のときの思いや行動を、当時の大本機関誌に発表されています。なお( )内の注釈は編
 者によるもの。


 青天のへきれき

 一連の反教団事件は、裁判の取り下げという形で一応の終結を迎えましたが、まだ多くの問題が山積しております。
 出口和明さんを中心とした「いづとみづの会」は、宗教法人「愛善苑」として、また直美姉を四代教主と仰ぐ「守る会」も「大本信徒連合会」として独自の機関誌の発行、また個人宛の文書発送など積極的な活動を続けているようでございます。
 そういった状況の中、地方で純粋な信仰を続けておられる信者さんが、誤った情報を耳にして、正道をはずれるようなことがあっては、神さまに対して、また在天の開祖さま、聖師さま、二代さま、三代さまに対して申し訳ないことであり、お詫びのしようもございません。実際、そのような残念な事例を耳にすることもございます。
 母の一年祭も無事終えさせていただき、目前に開教百年(平成4年)という大きな節を迎えた今、私が、現在の四代教主に就任させていただくようになった経緯を、私自身の言葉で信徒の皆さまにお伝えさせていただくことも決して無駄なことではないと思い、筆を執ることにさせていただきました。
 母・三代教主さまが教嗣変更を決意されるまでの経緯は皆さますでにご承知のことであり、三代さまのお気持ちは、教団の機関誌等でも、紹介されていますので、その部分は省略させていただきます。
 私に対して、どのような形(状況の中)で、教嗣の変更が伝えられたのか、また、それに対して、私がどのように思い、どのような働きかけをしたのかをお話しさせていただきたいと思います。
 教団として教嗣変更が総代会で承認されたのは、昭和五十七年五月二十六日のことでした。
 私が、母の教嗣変更の決意を知ったのは、その数日前のことでした。その日、私は「聖子に会いたい」という母の言葉を受けて、大阪市大医学部付属病院に入院中の母を訪ねました。
 母の入院中、私は、時々お見舞いに行っていました。私は、呼び出しがあったほんの少し前に、病院へ行っていました。ですから“つい先日お見舞いに行って会ったばかりなのに、おかしいなあ”と思っておりました。
 私は京都の金剛先生の所から大阪の病院へ向かいました。
 何か用件があって私を病院に呼んだはずの母は、病室で何も言いませんでした。病室で私は、その前に山形へ植物採集に出かけたときのことを母に話しました。楽しかった植物採集の話を母は、ご機嫌よく聞いてくれていました。
 母が何も言わないので“用件はいいのかな”と、チラッ、と思いました。帰る間際になって、母は『今から手紙を書くから、帰ったら、その手紙を森さん(森清秀本部長・当時)に渡しなさい。あなたの手から渡しなさい。そのほかのだれからも渡してはいけません。聖子、あなたが渡しなさい』と念を押して言いました。そして、『返事もあなたがもらってきなさい』と言われ、私は、何が何だかわからないまま、「はい」と答えて、母から、手紙をあずかってきました。
 その日はお茶のけい古の日でした。病院から帰った私は、お茶の先生にごあいさつだけし、けい古は失礼しました。私は、森さんのところに行く前に、自宅の葉がくれ居に帰りました。
 すると、夫の斎(いつき)(出口斎氏)が私の顔を見て、「もう、森さんのところへ行かなくていい」と言うのです。私は、びっくりしました。斎には、手紙のことも、森さんのことも、病院でのことは一切知らせていなかったのに開口いちばん、そう言われたからです。
 私が「どうして?」と尋ねると、斎は「いま、三代さまから電話があって『もう聖子は、森さんのところに行かなくていい。あんたが夫だから、あんたから言ってきかせてほしい』とおっしゃっていた」と言うのです。母から頼まれた斎は、母の指示に従って手紙を開封して、まず自分が手紙を読んだ後、私に手紙を読むように言うので、私は、母の手紙に目を通しました。
 教嗣変更の母の気持ちを知ったのは、その時が初めてでした。私にとっては、まさに青天の霹靂(へきれき)。ただ驚くほかありませんでした。


 切実な母の願い

 母の手紙には、教嗣になるように母自身が私を説得しようと思ったけど、植物の話を楽しそうにする私の姿を見ているとかわいそうで、それが言えなかったので森さんから説得してほしい、という内容が記されていました。
 しかし、その後母の気持ちが変わり、説得する役を斎に頼んだのです。ちょうどその時、森さんは、亀岡にはおられず、和歌山県におられたそうです。
 母の気持ちは、私に伝えられる少し前、宇佐美龍堂総長(当時)に伝えられていたようでした。ところが当の本人である私には、知らされておりませんでした。
 教団として正式な決定がなされた大阪の都ホテルでの総代会当日も私は、どこで何が行われているのかも知りませんでした。私は、ちょうどその時、母に緊急の用件があり、母の秘書(当時)である山本荻江さんを通して初めて母の在所を知りました。
 しかし、「申し訳ございませんが、今お電話に出ていただくわけにはまいりません」と総務の一人が電話口で言いました。今から思うと、総代会で決定される教嗣の変更を私が阻止するための電話だと誤解したのではないか、と思います。
 しかし、先にも言いましたように、私は、その場で教嗣変更の手続きが行われていることさえ知らなかったのです。まったく別件で母に電話を取りついでほしかったのです。
 また、場所の記憶はさだかではありませんが、母は私に、『あなたが教嗣を受けてくれないと大本がつぶれる』と言いました。その言葉の中にある、母の切実な願いが私にも、はっきりと感じられました。人一倍責任感が強く、何事でも真剣に考える母が、そこまでの結論を出すには、第三者では想像もできない深い祈りと苦悩があったことでしょう。
 しかしその時点では、まだそこまで母の気持ちを理解するほど私自身に心のゆとりがありませんでした。今から考えると申し訳ないと思いますが、母に対して、「どうして私が教主にならなければいけないのですか」と聞きかえしました。
 それに対して、母は、はっきりと言葉をわけて、私を教嗣にするにいたった理由を説明してくれました。
 しかし、あまりに重大なことであり、私としては、「はい、わかりました」というわけにはいきませんでした。
 教嗣変更が決まった総代会の翌五月二十七日、私は、ニューヨークのヨハネ聖堂でのみろく顕現祭のために渡米しなくてはなりませんでした。
 教団からは、教嗣変更の旨が私に伝えられましたが、即答せず、「今すぐ私が受けるというわけにはいきません。アメリカに行っている間、ゆっくりと考えさせてください」と言って、予定通り、参加団の一員として渡米しました。
 しかし、いくら考えても結論は出ませんでした。ただ悩むばかりでした。そして、私は、「母に直接会ってもう一度話すよりほかに方法はない」という最終的な結論を出しました。
 日本に帰ってからも、私の頭の中は、教嗣変更の問題しかありませんでした。荷物をもって自宅に帰り、その荷物を解きもせず家の中に置いた時です。“母のところに行くのなら、私一人で行くのではなく、だれか証人になってくれる人と一緒に行こう。一人で行ってはいけない”と思いました。今から考えると、これは、まったく神さまのおかげだと思います。神さまから、そのように考えさせられたのだと思います。
 もし、私一人で行って、母と二人だけで話し合ったのでは、嘘をついていると言われても仕方がありません。
 そして、その証人になってくれる人として、私の頭の中に浮かんだのは、従姉妹のなかの年長二人でした。一人は出口操さん(三代教主妹・梅野氏の長女)、もう一人は、藤本三千恵さん(三代教主妹・尚江氏の長女)でした。たぶん操さんには、時間的余裕があるだろうと思った私は、先に藤本三千恵さんに電話を入れようと思い、受話器を持ちました。
 その瞬間、「こんにちは」という女性の声が聞こえました。受話器を戻して、玄関を見れば、出口操さんと藤本三千恵さんの二人が来ているのです。あまりに不思議なことで、本当に驚きました。
 私は、「たった今、あなたのところに電話を入れようと思ったところだった」と言いました。
 二人は、「あなたが(教嗣を)受けたら大変だから、話しに来た」というのです。
 私は、「とにかく話したいので、上がってほしい」と家の中に入ってもらいました。そして奥の部屋で、三人で話しました。そこで、母からの言葉も二人に話しました。また、本当に困っている自分の気持ちを伝えました。
 その時点では、まだ「元に戻れば」という気持ち、願いを私はもっていました。
 「明日は日曜日なので、お母さんの所に行って、直美姉さんのことを許してもらうようにお願いして、つまり、教嗣に戻してもらうようにお願いしたいから、二人も一緒に行ってほしい」とお願いしました。
 二人は、「私たちも、聖子ちゃんが受けたらいかんと思うからついて行ってあげる」と言ってくれました。二人も私の意見に賛成してくれたのです。


 裁判取り下げへの努力

 私は、まず直美姉に事件(裁判)を降ろして、謝ってもらって、姉を元に戻してもらうように母にお願いするつもりでした。
 そして、翌日の日曜日、私たち三人は、病院の母を訪ねました。
 私が、証人として女性を選んだのは、男性に比べて女性のほうが野心がなく、欲もないと判断したからです。男性は、どうしても権力欲もあり、名誉欲もあります。自分の思いが入り、冷静な判断を欠くと思ったからです。
 私は病院で、「直美姉さんにお願いして事件を降ろしてもらいますから、こらえて(直美姉を許して)もらえませんか」と、母にお願いしました。
 しかし、母は『あかん。私は、三月いっぱい、直美が謝りに来るかと待っとったんや。栄二が裁判で訴えたやろ、私としては、ギリギリのところまで待っとった。これ以上待てんから、私は教嗣の変更を決めた。もう高い崖から飛び降りた。今さら直美に謝ってもらっても元には戻せん。直美を許して四代に戻すわけにはいかん。今さらそんなことをしたら信者さんに申し訳ない』と、はっきりと言いました。
 私がいくら頼んでも、母の気持ちは固く、変わりませんでした。その場に、例の二人はいましたが、特に発言はしませんでした。母の気持ちの堅さに、言葉が出なかったのかもわかりません。
 帰りの車の中で、「おばちゃまの気持ちはもう決まっとってやし、あかんなあ」とは言いながら、「でも聖子ちゃん、受けたらいかんで」と言います。私は、腹が立って、「じゃあ、私にどうしろと言うの。お母さんと、あなたたちの間に挟まれて、どうしたらいいの。私に死ねとでもいうの」と言いました。すると、あわてて、「そんなことはないけど、受けてもらっては困る」と言うのです。
 説明しておかなくてはいけませんが、その二人が私を訪ねて来たのは、決して、その二人だけの考えで来たわけではありませんでした。私の多くの従兄弟の代表として、私が教嗣を受けることに反対して、説得に来たわけです。正確に言えば、教嗣の変更を止めてほしいという気持ちだったのです。その時点では、私の気持ちもまったく従兄弟たちと同様でした。
 生まれた時から、直美姉は、教主となるべき立場の人で、聖師さま、二代さまも、そして、母もその期待を寄せていました。そういう状況の中で育ってきた従兄弟たちにとって、また、私にとっても教嗣変更ということは、とても理解できないことであり、その時点で変更を受け入れられなかったのは無理もないことでした。しかし、従兄弟たち、そして私の気持ちも、その後の状況の中で次第に変わっていくことになりました。
 病院の母を訪ねた後、先のメンバーに加え、今度は麻子姉にも同行してもらって、合計四人で直美姉を説得するために、綾部の掬水荘(きくすいそう)に行きました。
 その場に同席したのは、直美姉とこちら四人でした。
 私は、「こんなことになっては困るから、事件を降ろしてお母さんに謝ってほしい。そうするなら、私も一緒に謝りに行ってあげるから」と言いました。
 母の堅い気持ちは知っていましたが、その時に許されなくても、半年か一年、姉がじっとしていてくれたら、母の気持ちも解けるだろうし、変わってくるだろうと思っていました。私は誠意をもってきちんとした形で謝れば、信者さんからも、姉を元に戻してほしいという声が上がってくるだろうと思っていたのです。
 「裁判で争うのは恥ずかしいことでもあるし、事件を降ろして、謝ってほしい」と直美姉にお願いしました。すると、直美姉は、「フフフー、裁判にもっていくのが、そんなに恥ずかしいと思っているの」と言って笑うのです。裁判が恥ずかしいと思うことのほうがおかしい、という感じで言うのです。
 その言葉を聞いて、私は、この人と話をしても無理だな、と思いました。世間でもどうにもならないところまでいってから、最後の手段として裁判にかけるわけです。それなのに、一教団の次代を継ぐべき人が、一度も話し合わず、裁判にもっていくことは、私にはとても考えられないことであり、大変な恥ずべきことだと思いました。私自身、「お姉さん、えらいことをされましたね」と知り合いの方から言われ、恥ずかしい思いをしました。
 そして、姉は、「私は、お母さんを訴えたんやない。教団執行部を訴えたんや」と言いました。しかし、世間の人は、そうは思いません。他宗の紛争を新聞などで見て、私は恥ずかしいことだと常々思っていましたので、自分のところに裁判がおこり本当に世間に対して恥ずかしかったのです。
 私の説得に対して、「私の後ろにはもういっぱい信者さんがついています。事件を降ろしてくれと言われても、今さら私の一存ではどうにもならない」と言いました。結局、私の願いはかなえられませんでした。
 その後、出口操さんと藤本三千恵さんは、直美姉を支援している当時の三丹主会長さんほか数人に綾部の愛善荘で会って説得をしてみたそうですが、まったく聞き入れられなかったそうです。
 それとは別に、私は行っておりませんが、広瀬の姉夫婦とたくさんの従兄弟たちが、綾部山水荘で直美姉と直子(直美氏長女)を説得したこともあったそうです。しかし、これも同様に、聞き入れてもらうことはできませんでした。
 また出口操さんは、自分で手紙を書いて直美姉に対して説得の努力もしてくれました。それに対して返事は来たそうですが、効果はなかったようです。


 尊師さまとのご面会で決断

 このように、たくさんの身内も、懸命の努力をいたしましたが、すべては徒労となってしまいました。
 最初、私が教嗣を受けることに反対していた出口操さんも、最後には、「聖子ちゃん、もう直美ちゃんはあかんと思う。私は、聖子ちゃんについていく。どんなことがあってもついていってあげる」と言ってくれました。その後、ほかの従兄弟たちも母の強い決意を知ると共に、直美姉の行動に対して不信を抱き、気持ちがはっきりと変わってきました。
 私も可能な限りの努力をしましたが、その方向は私の願いとは違った方向へと進んでいきました。そして私は、人為的な努力では動かすことのできない「大きな神意」の中に自分が置かれていることを悟り、次第に教嗣を受ける気持ちになってきました。
 私が最終的に覚悟を決めたのは、尊師さま(出口日出麿三代教主補)とのご面会でした。
 たとえどのような状況になろうとも、もし、尊師さまが、「知りません」とか、「分かりません」とおっしゃった場合、絶対に受けられないという気持ちでした。
 私は、最後のご判断をいただくつもりで、尊師さまにご面会させていただきました。お部屋に入り、ごあいさつさせていただこうとする前に、尊師さまは、私の顔をはっきりとご覧になって、大きくうなずいてくださいました。
 尊師さまは“待っていた”という雰囲気で私の面会を受けてくださいました。これで、私の覚悟が、はっきりと決まりました。
 教嗣変更があったかなり後、直美姉は、母のところに謝りにきたそうです。ある時、母が、「直美が謝りにきたで」と言ったことがありました。しかし、その時も、謝りにきたという事実だけを言ったのであり、だから、四代に戻してやると言ったわけではありません。母は、私的には姉を許す気持ちを持っていたかもわかりませんが、教主として、公的には姉を許しておりませんでした。もし、公的に許していたら、その旨が母から、まず私に直接伝えられるでしょうし、姉を教嗣に戻すための手続きをするように、という指示が教団にあるはずです。
 謝ったといっても、取り下げてからでなければどうしようもありません。裁判はそのままで、口だけ謝ったのでは意味がありませんし、母にだけ謝ってすむことでもありません。多くの信者さんへの迷惑に対してのお詫びもしていません。
 母に謝って、それで済むと考えていたとすれば、それはあまりに甘すぎます。母が公的に取り合わなかったのももっとものことだと思います。
 謝るのなら、まず裁判を取り下げ、そして総代会に出席しその場で謝罪し、地方機関に対してもきちんとわび状を発送するくらいのことがなければ正式な謝罪にはならないと思います。


 京都桂病院でのこと

 やがて教嗣から教主代行(昭和63年1月23日就任)と私の立場も変わってきました。しかし、自分の気持ちのどこかには、直美姉が教主をはずされたことに対しての同情がありました。かわいそうだという気持ちがあったのです。また、姉としての立場に対する遠慮もありました。
 しかし、その遠慮も母の昇天前後の直美姉のとった行動で、完全に消えてしまいました。
 その行動のひとつは、昨年(平成2年)九月十五日、母が入院していた京都桂病院での出来事です。
 病院に来ていた直美姉が麻子姉を通して、「外の喫茶店に行って話がしたい」と私に言うのです。母の危険な容体を考えると、外に出る心境にはなれず、病院にお願いしてお借りしていた畳の部屋で、直美姉の話を聞きました。その場には、麻子姉も同席しました。
 私は、直美姉が「話がしたい」と言った時、その内容を予測していました。私は、私が継ぐ四代の次、つまり五代目のことだと思ったのです。直美姉は、こうなってしまった以上もう無理なので、次の直子のことを私に頼むものと思ったのです。
 それに関しては、私の一存では決められませんが、皆と協議して考えてもいいと思っていました。その場で拒否するのではなく、それを考える余裕は持っていました。ところが、その場では、直子の「な」の字も出ませんでした。私の考えは甘く、予測はまったく裏切られました。
 直美姉は、いきなり、「お母さんにもしものことがあったら、私が四代を継がしてもらう」と言ったのです。開口いちばん、そう言うのです。私は、あっけにとられました。本当にびっくりしてしまいました。
 この時の私と直美姉の会話が、大本信徒連合会が発行する「愛善世界」の本年(平成3年)八月号付録に掲載されていました。それを見て、私はおどろきました。
 そこには、次のように記されています。
 「『聖師、二代さまよりおさとしを受けてまいりましたとおり、その仰せに従い四代を継がしていただきます。』
 ときっぱり四代の道統継承を言明されました。これに対して聖子さんは、
 『するならしたらよいけれど信者さんは誰もついてゆきませんよ。するなら別派をしたらよい。…』
 とひどい言葉をもって答えられました。直美さまには
 『私は別派をするのではありません。聖師様の御教を継いでゆきます。』
 と、神さまからあたえられたご使命とお立場にただ忠実に仕えられる決意を表明されたのです。」

(愛善世界八月号から)

 以上のように整然とした言葉で書かれていますが、実際は、違います。
 「四代を継がしてもらう」という姉に対して、私は、「何を言ってるの、あれから八年たってるよ。お姉さんに八年前、『事件を降ろしてほしい』と言った時、なんて言った? 『私の後ろにはもういっぱい信者さんがついているから、事件を降ろしてくれと言われても、今さらどうにもならない』と言ったでしょ」と、言いました。
 すると、直美姉は、「うち、そんなこと言うてない」と言うのです。確かに八年前、直美姉は、そう言ったのです。「言ってない」と否定する直美姉の言葉を麻子姉が聞いて、「あの時(綾部の掬水荘(きくすいそう)で)言うたやん」と直美姉の言葉の誤りをただしてくれました。幸い、私だけでなく、麻子姉が八年前、その場にいてくれたから良かったのです。綾部での言葉を麻子姉もはっきり覚えていてくれたのです。
 しかし、それに対して、直美姉は、「そうかなあ」の一言で終わりでした。
 そして、私は、「あの時、直美姉さんが、『私の後ろにはたくさんの信者さんが……』と言ったけど、私も、今同じ立場やで。私の後ろには、八年もたてばたくさんの信者さんがおってんやから」と言いました。
 それでも「私はとにかく継がしてもらいます。聖師さまや二代さまのお歌があるんやから、大本は私が継がんといかんのや」と、言いました。
 同じ愛善世界の付録には、編集者の記事として、
 「三代教主さまご存命中は、つとめて遠慮され隠忍自重されてきた直美さまが、このたび大本内外に広く四代教主を宣明されましたのは、開祖さま、聖師さま、二代様、三代さまのお言葉に依るものであります」
 と書かれています。
 私にはとても理解できない言葉です。どこが隠忍自重なのでしょうか。裁判に訴えることが隠忍自重した態度と言えるのでしょうか。その裁判によって、晩年、安穏な日々が送れるはずの母がどれほど心をいためたか、また多くの信者さんにどれほどご迷惑をおかけしたことか。大本を告訴するなど、母の気持ちを考えるなら絶対にできない暴挙と言わざるを得ません。
 母の昇天後に裁判を起こしたのなら分かります。それなら隠忍自重したといえるでしょう。
 また、母の昇天後、(平成2年)九月二十五日、私が綾部の尊師さま(出口日出麿三代教主補)のところに教主就任のごあいさつにうかがった時、すでに直美姉は、四代教主就任の手紙を全国に発送していました。私も綾部でそれを見ましたが、母の昇天した(平成2年)九月二十三日付になっていたので驚きました。その中には、すでに火継ぎの神事(注)を済ませたことも書かれていました。
 大本における火継ぎの神事がどういったものであるのか、ということは今さらご説明の必要もないと思いますが、直美姉が火継ぎの神事を行うということは、物理的に不可能であったということは言うまでもありません。
 母の霊前の「神火」は、最後まで本部奉仕者によって厳重に守られておりました。その「神火」が持ち出された事実もありません。
 それはさておき、直美姉の名前で発送された「教主就任」の手紙のあまりの段取りの良さに、驚きと不信を抱かずにはおれませんでした。

(注)「火継ぎの神事」について
 大本では、神定によって二大教祖の道統を継承される次代教主が、道統継承の際の最重要秘儀として「火(霊)継ぎの神事」を行う。
 火継ぎの神事とは月山不二(綾部梅松苑の神体山・本宮山にある最高至聖所)で採火したご神火を、教主ご昇天の際のご神霊前の灯としてささげ、そのご神灯を消えずの火としてお守りし、ご本葬、ご埋葬祭にお供えしたあと、そのご神火によって調膳された、火継ぎの神事の本膳を次代教主が箸をつけ、お召し上がりになるもの。


 ご神意のまにまに道統を継ぐ

 病院での件、そして、この手紙によって、私の気持ちと姿勢は、以前にましてはっきりとしたものとなりました。もう、何の遠慮も必要ないと思いました。
 直美姉を四代教主と主張する根拠として、本人も、またそれについている周囲の人たちも、聖師さま、二代さま、三代教主さまのお言葉、歌、文章を引用しています。それらが発表された当時、それはそのまま、聖師さま、二代さま、三代教主さまのお気持ちであり、それにいささかの疑問をはさむ余地もありません。それを否定するつもりもありません。
 しかし、大事なことは、それらの歌、文章が発表された時とその後の状況が全く変わっていることです。栄二さん夫妻が母を助け、教団の将来を真剣に考え、それにふさわしい行動をとっていれば、決してこのような事態は発生しなかったのです。
 そして、最終の決断を下したのが、教団でもなく、もちろん私でもなく、三代教主さまによってなされたという点です。
 「水晶のたね」「水晶のみたま」とお筆先にも示されてありますように、三代教主さまの特別なご使命とご神格は、開教以来厳然としております。そこにいささかのゆるぎもありません。その三代教主さまによって、次代の教主が決められたということを考えていただきたいと思います。
 これまでの文章を読んでいただければご理解いただけると思いますが、私は、自ら望んで教主になったわけではありません。だからといって、もちろんその職責に対して無責任でいいというわけでは決してありません。
 先にも申し上げましたように、神さまが仕組まれた大きな流れの中、つまりご神意のまにまに私は、四代教主として大本の道を継がせていただきました。そこに一切の私心をはさむことはできませんでした。
 在天の開祖さま、聖師さま、二代さま、三代教主さまによって命がけで守られたこの道を、私も微力ながら、精いっぱい、真剣に歩んでまいりたいと思っています。そこには、大神さま、歴代教主さま、そして尊師さまのご守護がないはずはありません。
 また教嗣変更の問題が発生した当時、私が、教嗣を受けることに難色を示した多くの親族も今では、心をひとつにして、私を支え、もり立ててくれます。それは本当にありがたいことだと感謝しています。
 恥ずかしいことであり、こういった文章を望んで出すものではございません。しかし、真実が歪めて伝えられ、正しい道を歩まれている信者さんが、道を誤られるようなことがあっては、神さまに申し訳ございません。
 以上、母の一年祭を機に、私にとっては忘れることができない記憶をたどり、教嗣変更から現在までの経緯を文章化させていただいた次第です。
 なお私の記憶に間違いがあってはこまりますので、出来上がった文章は麻子姉、出口操さん、藤本三千恵さんにも見ていただいたうえで発表させていただきましたことを付け加えさせていただきます。


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