十曜の紋WEB用2.psd宗教法人大本headnametype.png

I トップページ I グローバル I お問合せ I
印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |


大本歌祭

『歌祭』について
歌祭(うたまつり)は、わたしたち日本民族の祖先が、とおく上代にとりおこなっていた神事であり、芸能でもあり、両者の渾然一体となった民族的祭典です。
わたしたちは、祖先ののこしてくれた哲学的・文学的・歴史的遺産ともいうべき〝古事記〟〝日本書紀〟〝風土記〟などをひもとくとき、あの壮大なスケールをもつ調べの中に歌垣などの記事を散見することができます。
宮廷で、また国々の三諸の山で、それは、年に一度の誓願で神事として、盛大におこなわれた一大和楽の歌の宴であったことがうかがえます
このように歌祭は、その昔、村人が歌を書いて垣とし、神のみ心や村人の心を和め、和楽の世界を築く祭りとして行われていたようです。
しかし、鎌倉時代からは歌祭りも次第に絶えはじめ、宮中に歌会として形を変えて残ったといわれています。
現在、知られる小倉百人一首は、途絶える前に藤原定家によって小倉山で最後に行われた歌祭の折に、古今の代表的な歌を自選したようです。
大本歌祭
〝大本歌祭〟は、古来の〝歌祭〟の神事に遠由しています。出口王仁三郎聖師は、中絶していた歌祭を、古式の精神にのっとり復活再現したしました。
聖師は、大本入りする前の22歳のころに、国学者の岡田惟平(これひら)翁から歌祭に関することを聞き、長年、心に温めた後、昭和10年10月31日、復興したのです。
本部でのこの歌祭に次いで、11月17日には北陸別院(当時)で、歌祭が執行されました。そして、松江・島根別院(当時)での歌祭当日の12月8日、第二次大本事件が勃発。歌祭は官憲の警備のもと緊張のうちに執り行われましたが、それ以降歌祭は途絶えました。
事件解決後、聖師の遺志を継いで昭和25年3月に大阪・住吉大社で、同年5月に金沢能楽堂で歌祭が行われ、同年の瑞生大祭の夜から本部でも、再び執行されるようになり、現在に至っています。
当初は野外に仮設の舞台をしつらえ、青松を背景に篝火(かがりび)をたいて行っていましたが、昭和59年からは、万祥殿能舞台で行われています。現在は、瑞生大祭前夜の、8月6日に執行されています。
大本歌祭は、八雲神歌の精神である、世の中の有形無形の障壁を取り除き、さまざまな感情的なもつれをほぐして和合する世界の実現を、最初から最後まで和歌によって神に誓う神事であり、平和の祭典です。
したがって、わたしたちはこの歌祭に献詠し、参拝することによって、主の神のみこころを和めるとともに自らの心を和め、さらに人間関係一切にわたる和を求め、それらによって社会を和め、世界を美しくしていくことができます。
歌による誓いや願いは、真言による誓い、願いですから、偽りはいささかも許されません。この歌祭により、過去のどのような些細なことも断ち切らねばならず、また相互の契りはそれを永遠のものへとしていくことができます。
それは、まことに奇しびなる三十一音詩という、和歌の生命のなせる業という外はありません。
大本の神前結納式では、新郎新婦による短冊交換を行っていますが、これは、短冊にしたためた歌を神前で朗詠して、一生涯の夫婦の契りを結ぶ誓いをあらわすものです。
聖師は和歌の素晴らしさについて、次のように述べています。
『 すべての歌は天地神明の聖慮をやわらげ、万有に陽気を与へ、神人の心魂を照り明かす言霊の精華なり。… …言霊の清く朗らかな神人は、すべて和歌により難問題を解決せむと努力したりける』(「霊界物語」第四巻)
歌祭は、わたしたちの心の奥ふかくで歓びあえる神人和楽の宴ですが、心の向け方一つでは、まことに退屈なものとなります。現代人の求める多彩な道具だてやテンポの速い演出からは、およそ縁遠く、古代のままにおこなわれるからです。したがって、歌祭の参拝者は、テンポのおそい何の変わり映えもしない単調さの中に、自らの心をしずめて単純のかもす深い歓びをくまなければなりません。
歌 垣
大本歌祭の祭壇中央上段に、金銀の短冊が四方面に高くかかげられています。短冊には素盞嗚尊の「八雲神歌」が、出口直日三代教主の染筆で謹書されています。これは、日本の和歌の道(敷島の道)の祖神を斎きまつっているもので、歌祭ではこの八雲神歌をご神体(神籬(ひもろぎ))として祭典が行われます。その回りには、全国から寄せられた献詠歌が色鮮やかな色紙に染筆され、歌垣の四方を十重二十重にめぐらせています。この歌垣は、神の心を中心に生きる喜びを表現し、平和な世界の姿を表しています。
歌祭は、短冊を神籬(ひもろぎ)にした祭典であり、その骨格は、厳粛きわまるものです。一面、浴衣がけ、団扇を許されている歓楽の宴です。その日の献詠歌の朗詠に心の耳を傾け、夷振ひなぶり調のリズムをとおして伝わってくる歌の心にふれるのでなくてはなりません。一つ一つの献詠歌は、五色の花となり、七色の虹となり、まことの人の世のおもむき深い生き方に触れ合いながら、大愛の神のふところに抱かれていく神事です。
弓太鼓
歌祭には、「弓太鼓」という楽器を使います。桶(おけ)を伏せ、それに弓をくくりつけた、古代楽器の一つで、弓づるを梅の小枝で打つと、弓づるの音が桶にこもって床しい音色を出します。この弓太鼓が、後に一弦琴になり、二弦琴になって、八雲琴や、多くの弦を持つ琴ができていったのです。弓太鼓は、弦楽器の始まりであると言われています。
この弓太鼓は、素盞嗚尊の妃(きさき)櫛稲田姫(くしなだひめ)が、地上世界に平和を築く責務を任せられた素盞嗚尊の心労を拝し、桶と弓を用いて打ち鳴らされたことにはじまると言われています。その響きと勇壮なリズムを聞いた素盞嗚尊が勇ましい気持ちになったとき、素盞嗚尊の口から、八雲神歌の歌が朗々と詠われました。
夷振調
夷振調(ひなぶりちょう)とは、聖師口伝の、おおらかで力強い朗詠(歌い方)の節です。今日、残っているもっとも古い歌謡のリズムといわれています。
聖師は夷振調について次のように示しています。
『朗詠は五七五と宇宙を流れている波にのらなければ聞いていてもしっくりこない。王仁が歌を口述する時に歌う調子、あれが真実の歌の朗詠である。古事記にある夷振りというのはこの朗詠のことである』
歌祭では、歴代教主・教主補の斉唱歌をはじめ、全国信徒からの献詠歌が、この夷振調で朗々と歌い上げられます。
舞姫
献詠歌朗詠の前後に、能衣装を付けた三人の女性が、櫛稲田姫(くしなだひめ)とその両親である手名槌(てなづち)、足名槌(あしなづち)の3神の舞姫となり、潔斎の舞である「大和御歌の舞」「須賀の宮の舞」を素盞嗚尊のみ前に演納いたします。

utagaki.jpg万祥殿内の能舞台に設けられた「歌垣」

uta_yakumosinka.jpg斎主の「八雲神歌」奏上

uta_yakumosinka2.jpg斎主の「八雲神歌」奏上

uta_yamatomiuta.jpg「大和御歌の舞」

uta_rouei.jpg教祖、歴代教主・教主補の歌が斉唱歌として朗詠されたのち、献詠歌が次々と朗詠される

uta_rouei2.jpg朗詠

uta_suganomiya.jpg「須賀の宮の舞」

uta_teni.jpg「天位」受賞者への優勝旗の授与

prev.pngprev.png

next.pngnext.png